舞踏とインダストリアルの音・肉体と錆の詩
この中で書く思想と概念って、確かに何か新しい発見ではないし、舞踏とインダストリアルミュージックの組み合わせも僕の発見ではないし、土方巽さんも自分の公演で実験的な音使ったり、白虎社も僕が生まれた前にもうEinsturzende Neubauten の映像の中で出て来たのですが、自分は舞踏に関わる音楽家としてに、自分もたまに舞踏してる人としてにちょっと謎に独特な視点からこのアンダーグラウンドの世界を観てると思います。
僕はアカデミックではないし、そういう興味もありません。
このテキストはよくある質問とかは答えてみてるし、個人的な舞踏と音の考え方の解説があり、もしかしたら興味ある人は20人位だろうかなと思っています。
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| 土方巽 疱瘡譚 |
初めて舞踏を発見した事って、多分多めの方と同じ様に、短くて低品質のモノクロの土方巽さんもの1972年の
疱瘡譚という作品の映像でした。
その映像の中でボロボロの泥の幻のようにほぼ粉粉になっている、遅く動いてる、観客から離れ引き込んでみるような土方さんが見えますね。
そのイメージがインパクトは凄く強かったけれども、それと同じぐらい大事さはその見てたメディアの低品質のフィルムもあったと思いますが、それについてあとでもっと書こうと思います。
心の中で残った事って、その消えてゆく、潰れてゆく、人間っぽくさがない肉体とか、白塗りした身体の背景の真っ黒の空虚に対してのコントラストとか、、、舞踏はよく暗黒舞踏って言われてますが、西洋の人達はよくこれをかっこつけの二元論的な事としてには勘違います。
陰陽とか、善悪とか。
それより、その暗黒っていうことって光の不在ということだと思いますね。物理的な暗黒とか、ちゃんと見えない事とか、闇の中に消える事とか。
舞踏って、どちらも物理的な意味でも、形而上学的な意味でも、消滅の芸術だと思います。見たことある公演の中で、ほぼシルエットの様に闇の中で、後ろから写った弱い照明に対してにやったこともあります。
そんな環境で存在のフィジカルさとか、間の感じがすごくハッキリ感じれると思いますね。
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| 明夜 |
その事って、全部見せるより、闇から光で身体を彫るみたいな芸術ですね。
そんなパフォーマンスをいっぱい見れて、そんな人たちともコラボレーションが出来てラッキーだと思います。
その闇はまた現実の低忠実度さを倍にして、人の想像力が勝手にその見えないことを描いていますね。
たまに観てる時は突然ふっと目が覚めたように「僕は今何を見せてもらうのか、この目の前に開いてくる事って何ですか」って思ったことがあります。
こんな雰囲気を作るために、自分自身は夕暮れの時、薄暗いの時に自然の中で、都会の人間の中でも出演するのが好きです。
舞踏に慣れてない人の中で出演すると、その夢のような雰囲気はまた強くなると思います。
北海道で活躍してる明夜さんとやる黙雷というコラボレーションユニットでこれもやったことがあります。
ある人にはそれは確かに怖いですけれども、幽霊のような舞踏家は当たり前としてに思ってる都会の風景の中でその覚めと夢とか、現実と無現実とか、生と死とかの間の限界を消せられてますね。
僕にとっては自分のすべての芸術は大体その目標でやると思いますね。
その以上は、このコンテクストで間の感じもすごく面白くなり、動きの間の為に。
うるさい社会は忙しくて、急いでるのに、その中では舞踏家がほとんど何もやらず、ただいるだけ、空間に存在することだけで充分強い体験になると思います。
そんなところでやる時は、反応はよく舞踏に結構慣れてきた人たちより面白いことが起きると思います。
インダストリアルな音のこともそうじゃないでしょうか。
慣れた人たち大体見てることをほかの見たことあるアーティストに比べてるけれども、慣れてない人たちがもっと純粋に感情的にそれを感じられて、その反応を見るの方が面白いだと思います。
その見たことあった映像の中で、土方さんはほぼ腐食されてるようだし、アイデンティティが失ったような人間のような動きに見えます。
自身を失った人間のように、存在の泥の中に迷った人間のように見えます。
土方さんは秋田出身で、よく子供時代の田舎の生活の記憶を自分の舞踏を形にしたような体験としてに思い出されました。
僕自身も田舎の子ですので、世界の反対側の田舎だったけれど、土方さんは言われたことが良く理解できると思います。
一つの舞踏の大切な点って、ルーラルとインダストリアルな世界の交わるポイント、現代時代と古時代のプリミティブな感覚は一つになって、時間の感覚がなくなります。
この映像を初めて拝見した時はいつだったっけのを覚えられないんですが、何年間もそれが潜在意識で残り続いて、確かにそこからずっと自分の美意識もその影響をいっぱい吸いました。
ずっとそのままで何処かで残って、やっと2018年はフィンランドのテレビが作られた日本の音楽シーンのドキュメンタリーで園田游さんのインタビューが出て来ました。
その時はまだ、いつか一生中で日本に引っ越したり、日本語も習えるようになったり、この同じ園田游さんともご一緒に出演したりするようになるのを想像も出ませんでした。
然し、園田さんの踊りと言葉を見ると、自分の中でまた何か火花が一瞬で散って、なんか形に戻って、これだ!って悟りました。
ずっと自分の心の奥でこれがあって、今はやっとそれの時期がなりました。
その影響は強くて、特に僕のFlesh
Holeという詩の朗読とインダストリアルな音のアルバムにインスピレーションいっぱいもらいました。
最初はそのアルバムの概念は自分で舞踏公演したら、何の音に舞踏したいのかっという感じで作って、自分の身体の音探し、そうして自分の体をも音源としてに使いました。
後でそのアルバムの目標はちょっと変わって、Dada
BonesとLost
Mindというアルバムとともにスポークンワード
トリロジーになりました。
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| 園田游、YLEの番組 |
このコンテクストで自分の音楽の事ってインダストリアルな音としてに書いてますが、これは主に何かコンテクストをあげるようにして、よくつけてあるタグをするようにしていますけれども、自分音は完全に「インダストリアル」でも思わないと思います。
インダストリアルが好きな人も同感だと思いますね。
僕の音楽の中でよく普通とか民族楽器もあるし、ギターなど、尺八など、サックスなど、何でも作りたい雰囲気似合ってると思ってる楽器か機材があれば、使いますね。
それでも、大分の楽器が大体鉄の破片とか、石と陶芸とか、竹とか、自作のばねとワイヤーついてるジャンク楽器があります。
見た目にも空港に入る時はいつも早く困ってるようなものだけれど、まだ今までには奇跡みたいに困らせたことがないので有り難いです。
それでも、インダストリアルミュージックというコンテクストの中では多分一番身近な感じがあります。
特に大阪のアンダーグラウンド過ごしていただいた時間の為に、今からの将来にもその狭いコンテクストの中で一番心地よくて人生が過ごせると思います。
自分の音楽についての考え方は、錆の詩というように考えてます。
音楽的な概念としてに思わないし、それより材料の音と言葉の詩的な物としてに想っています。
風景とか、映像とか、瞬間、記憶、夢、ゆっくり消え去ってゆく、その土方さんとの同じようなボロボロの泥の幻達など、枯れてゆく花など、、その意味で、僕には一番面白くて、酷いことは時の流れだと思います。
音の中でも、舞踏の中でも、時間が我々のとうしてに出演の間に流れていって、一緒にその同じ空間と時間をシェアしてますね。
このためにも、一人で出演するより誰か舞踏家と一緒にしたいと思います。
一人で出演すると、観客がそれを「音楽」としてに体験したら、何となくしっくり来ないって感じます。
中々音楽としてに考えられません。
僕のことを音楽に言ったら、それはちゃんとの音楽家に対してに悪いと思います。
彼らが一生懸命働いて、イ音楽を作るために一生懸命頑張ってますね。
僕はただステージ入って、自分のままでその出演の期間で存在してるだけ。
その意味でも、誰か舞踏家が一緒にやってくれたら、その体験される方は音楽より精神的な空間作品になると思います。
皆で一緒に観てる夢のようなものだと思います。
もっと関係ないポイントで、自分のプロジェクト名のJunkyard Shamanも時間の考え方的に好きだし、1000年後の崩れた世界のジャンクヤードと、1000年前の大昔のシャーマンというものを一緒にして、その2000年の期間の何処かで僕が存在して、自分の作品を作ったようですね。
僕の作品の中で、終わりはいつも一番大事な部分だと思います。
始まったことのすべてが必ず終わるだろう。
すべての終わりの破滅の中でも、また新たな再生がある、何も無い灰の畑の中よりまた柔らかい茎が出てくるようですね。
一つの大事な思想って、決して必要より多いしないべき。
それはおそらく元々の舞踏の影響だと思います。
もし存在が、気配が通分強かったら、余計に空間をいらないものに溺れさせなくてもいいです。
たまに成功できるし、普段に失敗します。
特に久しぶりに出演するときか、カレンダーでゃ一つの出演しか入らない時は、自分のすべてのことを針の穴から押してみるような気がします。
ほぼ決して練習しません。
実は、練習は全く好きじゃないです。
もっと良くなりたいわけではないし、自分のやることもっとよく知りたい訳でもないし、逆にもっとなくしたいし、失いたいし、知らない事とか、理解できないこともっと見つかりたいです。
この意味で、全体的に自分の作品の一番大きな影響はサムエルベケットだろうかもしれません。
ベケットは西洋文化の中で恐らく最も舞踏の響きがあり、彼の作品の中で中々何も起こらないし、全部繰り返してるし、ずっともっと消せられて、悪くなるし、腐食されていって、消えてゆく。
規律か、献身の方があってる言葉だと思います。
この自分の作品に自分の人生のすべてを献身して、やるときはその献身を仕えるという感じがします。
いつも同じ様に繰り返しても、結果はいつも違うだろう。
格好つけるように聞こえますかもしれないけど、大切なことだと思います。
日常なことでも、芸術のことでも、何か自分より大事な、大きな事を仕えた方がいいだと思います。
僕にとってはそれこの自分の芸術の道です。
それから、僕による舞踏とは何?よく質問したことがあります。
確かに、皆は違う答えがあるだろうけれど、僕によって舞踏って肉体の詩ですね。
肉とか、骨のままで、心がないような空の身体。
考えないままで、あるほかのダンスの中である「いっぱい体を鍛えたからこんなこともできるんやん!」と言ってるエゴイストなことがしてない芸術。
ある意味で、舞踏は僕の音と同じように受け取るより減らすことに集中してると思います。
自分の中である真実の律動と流れを探し、余計なこと全部切ってみるようなことだと思います。
体がみなそれぞれの詩的さがあるし、自分に自然に合ってると合わない動きがあるし、できることと出来ない事もあるし、皆の肉体は自分の中に重ねてきた人生の集まりだと思います。
その自分を皆は毎日また日常な選択の中で選びますね。
すべての体験とか、過ごした人生の時間が影響あると思います。
その意味で、舞踏家の人生は舞踏の身体をその詩を作ってくれると思います。
皆は自分のことしか踊れません。
本来の自己の自然。
僕にとっては、その詩は舞踏です。
その為に、色々なワークショップで習ったきれいにできる方を見せる人より純粋に自分の舞踏をやってる人にしか興味ないと思います。
方は最初に大事なことかもしれないし、集中力が落ちたら、迷いがあれば役に立つと思いますが、自分と関わった舞踏家達の素晴らしいことって、自分自身の中で何か表現しないといけないことがあります。
これも、恐らくすべての芸術に同じ様にあたると思いますが、舞踏は骨と皮膚のままでやりますので、他の芸術よりすぐにバレると思います。
現代世界で、特にニューエイジサークルで舞踏はよくトラウマの直す道具としてに思われるようです。
僕はある程度ちょっとこんな考え方の反対です。
確かに、舞踏がヒーリングみたいなことにもなれることもあり、自分が動いたら自分の体と心がちょっと仲良くできるようになれば当たり前だと思いますが
(元々から何も分立がなかったと思うけれども)舞踏の意味は誰かの傷を治す道具しかなかったら、それは舞踏にも、自分自身にも良くないと思います。
それより簡単な、合ってることもあると思いますね。
又は、人間は何か自分のエゴより大切なことが見つければもっといいことになれると思います。
舞踏とか、何でもやることに献身出来れば、人生に意味が見つけれるし、舞踏も結果的にはもっとよくなれます。
この献身の思想って、世間は大体失ったのに、特にはインダストリアル音楽とか、舞踏とか、色々なサブジャンルの中でまだ強く生きてると思います。
得ることが無いのに、やり続けることが大事なスキルだと思います。
献身でそんな事が習えます。
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| 金亀伊織、写真は秋久秀雄。 |
舞踏とノイズの交わるポイントを考えようっとしたら、一人のよくコラボレーションしてるる舞踏家をメンションしたいです。
大阪で活躍してる金亀伊織さんと関西で様々なノイズのイベントでよく一緒に出演したことがあります。
彼の身体の中で感じる激しさがノイズにすごく自然に合ってるし、音と体の粗い感じを一緒にするときは見てくれたお客様達も確かに、それが強く感じられると思います。
もちろんそれは金亀さんが出来る事の中で一つの事しかないし、他のようなイベントも一緒にやったことがありますけれども、最初からなんとなく彼の舞踏は確かにもっと激しい音にも合うと思いました。
身体の中でいっぱい出口を探してるノイズがあるように見えました。
身体達、人間は皆はそれぞれ流れ、それぞれの存在があります。
それを見せ彫るのは音のわけです。
舞踏家の皆と出演する時は、皆はそれぞれ違うって感じますね。
同じ楽器を使ってるのに、同じ設定でするのに、違う人に結果はいつも違うだろう。
もちろん、すべての舞踏家はそんなに激しくて感じてる音は必要じゃないと思います。
確かに僕の音と哲学とやり方が全くいらない舞踏家は何千万人もいます。
僕の興味ある事は確かに狭くて、渋いだと思います。
私はそんな人だから、同じ様な人も凄く好きだし、深くて尊敬するようになりました。
その中で一人のすごく尊敬してる作家は多門伸さんです。
多門さんと一緒に大阪でも色々な大切に、光栄としてに想ってる思い出がいっぱいですけれど、2024年の北海道舞踏フェスティバルのミステリーツアーで一緒に音を出演した時の記憶も凄く大切な体験になりました。
多門さんはインダストリアル音楽の作家としてに技術でも僕より何倍も超えるし、彼のビジョンとスキルも尊敬してます。
彼のソロ作品も、Weiches Loch というメタルパーカッションの自作楽器を使ってるグループも素晴らしいだと思いますので、皆さん是非チェックしてほしいです。
正直言えば、僕も元メンバーですけれども、自分が抜いた後の形になったWeiches Loch の方がすごくなってきたと思います。
彼らの音もすごくよく舞踏に合いそうと思います。
こんな人たちと活躍する時は、自分はいつもなるべく純粋に彼らの世界観とか、ビジョンとか、やりたいことが見えたいですね。
そんな風に、面白い人たちの自分のままで凄い出すことがいっぱい一緒にすると、結果は最も素晴らしいことになれると思います。
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| Weiches Loch |
舞踏に音を作るのは結構独特な事ですね。
光が身体を闇の中より彫る様に、音も精神を静粛の中より彫ると思います。
このためにも、何も余計な事をやらず音を作るのは大事だと思います。
それより、自然にいろいろなことが現れれる空間を作るべきです。
恐らく、ある音楽家達は有名な舞踏家か、もう人気出た舞踏家と出演したい人が多いですが、僕は体験がそんなにない人達か、素人とも出演するのが好きです。
体験があるかどうかより、精神的にその人が合ってるかどうかのほうが大事な事だと思います。
体験が多くない人達とやるときは両方にもっと発見ができることとか、何か探せるような冒険感がたまにあると思います。
それから、自分自身も最初のときは色々なこと習った方法って、自分より体験がある人達といっぱい活動したら、彼らのやり方とか、体質を学んでたから、そんな体験も自分ができたから感謝しながら他の人に与えたいと思います。
そんなことで早く習いたいことが習えるからと思います。
体験がない人達とやるときは、安定に、音のインターフェイスみたいな信頼できる空間を作ってみます。
前に書いた様に、自分には一番面白い事は主に時の流れです。
白濟豪、写真は
15分から90分位がかかる公演のコンテクストでだけじゃなくて、人間の生涯の中でも。
舞踏で、舞踏家自身の身体のとうしてに流れてる時間が見えます。
ある人達は多分若くて、柔らかくて、動きが激しくて、エネルギーがいっぱいあり、色々な形になれる舞踏家を見るのが好きかもしれませんが、そんな舞踏家はよく重さとか、我慢とか、静粛か間が分からないと思います。
そんな人を見た時はよく「一旦人生がこの人もちょっと遅くさせたら素晴らしくなれるなー」と考えた事があります。もちろん、若者の中でも素晴らしい舞踏家があり、その中で一人のは台湾の白濟豪
です。
白さんの存在感とか、余計な動きの我慢とか、時間の間の感覚はすごくいいだと思います。
然し、お年寄り舞踏家達がよくただの存在感とか、気配とかでも充分感動させることができます。
きっと、これはまた肉体の詩の事に戻りますね。
皆はそれぞれです。
体の動きの自然な流れと律動、性格、すべてのことが影響あります。
ある人がもっと動物の様に、ある人の気配が植物のように、花のように、石のように動かず、ただいるようにも感じます。
僕の音楽にも似てることって、舞踏も普段に楽譜としてに伝統的な振り付けより言葉と詩を使われています。
たまには、すべてのことが理解したいって思ってる人にこんなことが中々説明しにくいだし、それは考えず想像させる映像のようだからです。
その為には、詩とか、抽象的な事がよくわかる人はよく身体をいっぱい鍛えた人よりいい舞踏家になれると思いますね。
ただ身体が動いてるのに、ただ身体のことではないです。
それより、精神のことです。
コンテンポラリーダンスと舞踏の別れと競争がよく聞いたことありますね。
僕の視点から見たら、コンテンポラリーダンスで身体が空間で踊る。
舞踏の中で、身体が空間に引っ張られてる。
その為は音作人が、身体を引っ張ってる空間の風景を彫る。
公演か踊るのために作った音ではありません。
それより、舞踏家が自由に消えるようになれるためにある、不存在出来る儀式のようなものです。
舞踏を踊りの概念でに考えたら、道が迷いますます。
音も音楽の概念で考えたら、道が迷います。
踊りと音楽ではありません。
どちらも、そんな風に考えられます、宇宙のすべての音も律動と音階があり、すべての空間で起きる動きは踊りのようにも考えられますが、その同じ現実に存在ないようなものです。
この為にも、特に抽象的な音楽は、インダストリアルか、ノイズか、何の名前を付けたいかどうか皆さんそれぞれ自由に選んでください、舞踏のコンテクストにぴったしあってると思います。
個人的に一つの重要なレファレンスポイントになれることは確かに高品質より低品質の使い方。
例えば、出演の映像を撮る時とか、音の事でもそれは特にそうだと思います。
もしかして雰囲気の目標は身体と精神の崩壊とか、自身の崩れとか、意識と記憶の錆びることと腐食などならば、使ってる方法も舞踏家と同じ言語を話さないとと思います。
たまに見たことあるパフォーマンスの時は、舞踏家がやったことに一切集中ができなくて、音の世界が全く違った世界で存在した様だったからです。
撮影するときも、今の世界ですべてのことはウルトラHDで、何kでやっても、その昔のグレーンとノイズがいっぱい入ってる70年代か80年代のフィルムで撮った奴を越えた映像はまだ見たことがありません。
昔の舞踏家皆素晴らしかったからというわけだけじゃなくて、現代時代の舞踏家達も素晴らしい舞踏家がいっぱいいます。
それより、現代でドキュメンテーションのする方とか、保存する方が変わったというわけです。
世界のすべてをずっと見なくてもいいだと思います。
夜は暗いべきです。
見えない部分とかもあれば、人間の想像力が勝手にそのギャップを描きます。
ウルトラHDの時代で幽霊が存在できる余裕がないです。
このためには、自分の音楽にもカセットテープが一番合ってるフォーマットがあると思います。
時間でだんだん悪くなるし、遂に音の海のようなものにとけてゆくからです。自分にとっては、それは人間の意識を伝えてる完璧なイメージだと思います。
言葉で説明できない、舞踏と僕の音楽が目指してる世界。
あの世。
低忠実度さとかテープディケーなどは舞踏にあってる雰囲気を早く作られてますが、勿論生音とか、環境音とか、アコースティック楽器、何でも身体、自分の手で作れるものもいいです。
目標は踊りに作るリズムではなく、身体に作るリズムです。
一つの要素は心臓の叩き、また一つ要素は呼吸のリズムとか、メタボリズムとか、血流とか、そんな風で音の身体を作ります。
自分は鉄の異様な音楽的さも大好きです。
ばねとか、ワイヤーとか、プレートか割れたシンバルとか、、僕にはそれがフィンランドの田舎で初めて出会った音楽ですね、いつか音楽を作れるようになるのを分かった前からの体験、大きな農場鉄ドアの叫び音など、コンクリートミルを叩いた時の響きなど、何でも音出せた物で遊んでました。
去年は友達の畑で稲刈りたときはやっぱりこんな同じ様に繰り返してる単純な田舎の仕事は自分の自然なリズム感とかにいっぱい影響されたのを悟りました。
確かに、僕と同じように成長して来た日本人ともフィンランド人、多分ある世代までに世界のどこにも育てきた人にそれが一緒だと思いますが、その全部はもうかなり昔の世界になりましたと思います。
そうして、こんな微妙な、見た目にはなかなか関係ない事は多分僕の音楽のやり方とか、考え方を舞踏にも合わせるようにされました。
人生は失敗と間違いと偶然の重ねて来ることとしてに想っています。
何となく、僕はこの狭くて、深い舞踏の限界文化の世界で自分には心地いい場所が見つけて、その中で見つけれた体験とか、親友とか、コラボレーションとか面白いアイデアとか、すべてのことで心の一杯で感謝して、この自分の道にこれからの人生をも献身するつもりです。
テキストに合わせてこれも作った。ダウンロードでPDFもあります。
https://junkyardshaman.bandcamp.com/album/the-poetry-of-flesh-and-rust
Butoh and Industrial Sound - The Poetry of Flesh and Rust
I do not claim to
have invented these thoughts or concepts, or even the combination of
butoh and industrial music, as it is easily proven that Tatsumi
Hijikata used to have experimental sound in his performances, and
Byakko Sha was performing in the Einstürzende Neubauten video even
before I was born, but I acknowledge that as a musician for butoh,
and sometimes doing butoh myself also,I am working on a very specific
field inside two very very niché fields of butoh and experimental
sound. I am not an academic, and don't aim to be. This text is solely
for those interested in the subject and my view of butoh and sound,
which I figure might be around 20 people at best.
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| Tatsumi Hijikata in Hosotan |
My first encounter
with butoh has been the same as many people I think, in form of a
short, low quality black and white clip of Tatsumi Hijikata's 疱瘡譚,
Hosotan from 1972. In the video one can see Hijikata, looking like a
muddy ghost, falling apart, body moving slowly and as if withdrawing
from viewer. As impactful as the imagery itself, is the media, the
low fidelity film recording, but I come to that later. What stuck
with me is the imagery of disappearing, disintegrating, a body
without humanity, the high contrasts of white painted body against
the utter darkness of the background... Butoh is often called the
dance of darkness, and in western world this is very often
misinterpreted into some cool dualistic view of light vs darkness,
good vs evil, but that darkness implies merely the physical darkness,
the state of being unlit, left underexposed, unseen. Disappearing
into the darkness. Butoh is very much the art of disappearance, in
both physical sense and metaphysical sense. Some of the best
performances I have seen have been merely silhouettes in the
darkness, against the faint lighting somewhere else. In that kind of
environment you understand the physicality of presence and ma, the
sense of space.
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Akiyo, photo Sakaki Asano |
Many times when people expect it, they compare it to another bands or artists they have seen, but people who do not have prefixed ideas feel it on a more emotional level and that, to me at least, is more interesting approach to anything.
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| Yu Sonoda, in a YLE documentary. |
In this context I have spoken of my music as "industrial sound", but that is merely to give it some context, and trying to put it in a box it is often seem, although I do not think it is purely industrial, and probably many puritanists of the genre also agree. I also use many normal or traditional instruments, shakuhachi, guitars, saxophone etc, whatever I think is needed to convey the meaning and fit the purpose of what I am doing at any given time. Most of my instruments still are pieces of scrap metal, ceramics, stones, bamboo, and self-built instruments with springs and wires attached to it, stuff that makes me a bit nervous at the airports every time, but miraculously enough have given me no trouble yet.
Nevertheless industrial music is probably at least mentally the sort of context I feel most closeness to, especially with the Osaka experimental music scene which was my home for so long, and hopefully will be in the future also after I get my life sorted out.
My approach to music is very much that of poetry of rust. I do not think in terms of musicality, but of material poetry of sound and words. Images, landscapes, moments, memories and dreams slowly fading away, those same muddy ghosts and withering flowers decaying away.. In that sense what interests and horrifies me the most is time. Both in sound and in butoh, the the time is flowing through us as we exist in the same space for the duration of the performance. This is a big reason for why I prefer performing with butoh artists than alone. If I play alone in a live event, it feels like people are taking it in as "music" and for some reason that appears to bother me, as I don't think it is really music. I think calling it as such is an insult to musicians who work hard for their music. To me it is more merely getting there and existing in space for a certain amount of time. In this sense, butoh dancer also extends the work from "music" into creating a mental space, a dream which we all see unfold together, as I prefer to reference it.
In a more irrelevant sense, I also like the project name Junkyard Shaman as it combines our post apocalyptic industrial junkyards from 1000 years in the future to something that stands as an image of tradition from 1000 years in the past. Somewhere within this 2000 year span, I existed and made my work.
In my work, the end has always been the most important thing. The end is that which imminently follows every beginning. And in every end there is the destruction that begins the new cycle of rebirth, the empty field of ash from which the new seedlings will grow out.
One driving thought is never to do any more than is necessary. That is probably very much the original influence of butoh in my work. If the existence, sense of being is strong enough, one does not need to fill the space with anything meaningless and unnecessary. Sometimes I succeed, usually I fail at this. Especially if I have not played in a long time or there is only one performance in the calendar, it quickly becomes the sort of situation where you try to squeeze yourself through one small needlehole and do everything at once.
I never practice. In fact, I hate practicing. My aim is not to become better or more accustomed to what I do. My aim is to lose skill, find more uncertainty and things I do not understand. In this sense the biggest influence of my work might be the body of work of Samuel Beckett, which I see the closest western counterpart for butoh in many ways. In his works, things often drag on, repeat, get worse and worse, disintegrate and get lost.
A better word is discipline. My work is my discipline to which I have devoted all of my existence, and every time I do it, it is in servitude to my discipline. It keeps repeating the same, and yet it always becomes different. It may sound stupid or pretentious, but I think it is somewhat important approach to life; one should have something that is bigger and more important than yourself, something that one can serve, and to me, it is this path of my art.
Then what is butoh? I have been asked many times. Probably everybody has a different answer to the question, but to me, it is the poetry of the body. Of flesh and bones, an empty body without a mind. No thinking or feeding your ego with "look what I can do with all the practice I have had" as in some other forms of dancing or stage art. In some sense, I think butoh shares my thinking of losing instead of gaining, finding something within oneself that is fundamentally essential to being you and cutting out everything that is unnecessary. Every body has their own poetry, the sense of natural movement, the disabilities and abilities that life has brought you, you are an accumulation of your life, the time the body has spent on earth, all the experiences and personal life choices shape the body of the butoh dancer. In a way, the butoh creates the body for butoh. Every body is dancing out itself, the true nature of itself. And to me, that is the poetry of butoh. I am only interested in the individuals from whom I see, that more than showing all the kata they have learned from some workshops they have participated in, they are doing something that is essential and true to THEM. The kata might be important in getting you started, or to have some confidence to fall back on when you momentarily lose concentration, but with the many butoh dancers I have worked with the connecting quality is that they have something within them that they are expressing. This, of course can be extended to any form of art if wanted, but I think the bare boned nature of butoh makes it far more apparent than many other forms of art.
In current world there is a kind of trend to see butoh as some sort of extended trauma-healing work, especially in the new age circles, but in a way I am a little bit in opposition of this. It may be healing experience to become more connected with your body (for you are nothing beside it anyway to begin with), but if the main purpose of butoh is to serve as one's ladder to their own mental well-being, I think there are better ways to do that. Again, I think one should find things that are bigger than themselves and worth devotion; if one serves the butoh and not the other way around, it will result in much better butoh. I think it is the idea of dedication or devotion that is lost in many factions of life, but still lives strong in subcultures like experimental music, where there is pretty much nothing to gain, but people keep on doing it nevertheless.
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| Iori Kinki, photo by Hideo Akihisa |
When thinking of the connection between noise and industrial music and butoh, one frequent collaborator I want to pick up is Iori Kinki, Osaka based butoh dancer with whom I have played many noise events in Osaka. In his body there is the sort of intensity that I find very fitting for harsher approach to sound, and I think people who have witnessed these performances can only agree that they are somehow strong experiences. Of course that is not only thing he can do, but somehow right from the beginning I felt like the intensity of his butoh fits really well in this sort of context also. It felt like his body is full of noise looking to get out.
Every body, every
person has different kind of flow and rhythm, different existence.
The purpose of the sound is to sculpt it out. With every single
person, it feels different to play, although instruments would be
exactly the same, the set up can be the same, and for every person
the outcome will be different. And of course, not everybody need to
have so intense approach to the sound, there are of course probably
hundreds or thousands of people who can do completely fine without my
kind of sound also. My area of interest is probably narrow, but deep.
I am like that, and I have grown to respect many people who are built
alike in that. One of those people is definitely Sin Tamon, with whom
we had intense two days of making the sound for Hokkaido Butoh
Festival's Mystery tour in 2024. He is an industrial music artist to
much further extent than I am, and I have huge respect towards his
creativity and skill. I highly recommend checking out his solo activities if you have a chance, and also the band Weiches Loch, which uses metal percussion instruments built by Tamon. To be transparent, I also used to be a member of the group in the past, but I also think it is much better without me. I think their sound is also very fitting for butoh, so I think it is relevant to mention.
When I collaborate with such artists, I try to
create the environment where everybody can express their own inner
self, worldview and thing they want to create as purely and unaltered
as possible. It is my belief, that if we bring together artists who
are uncompromisingly themselves, the result will be fantastic.
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| Weiches Loch |
Making sound for butoh is a quite specific thing to do. As the light carves the body out of darkness, the sound sculpts the spirit out of silence. In this sense also it is important not to do anything unnecessary, but to create the space for things to unfold naturally.
I suspect some people would probably have the sort of approach where they cherry picked only experienced or famous butoh dancers to work with, but I also very much enjoy working with inexperienced dancers.More than whether they are experienced or not, I care about whether we match mentally or not. Playing with dancers with less experience often provides a chance of discovery and exploration for both of us. Also, I think the way I learned to play in the beginning was by playing with people who had much more experience than I did and learning while watching them work, so I think it is important to pay that kind of thing forward also. That is how you learn fast. In case of inexperienced dancers, I aim to provide an interface for existence, something they can rely on in their performance.
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| Chihao Bai, photo by Sakaki Asano |
Of course, this again comes to the poetry of the body, different for each person. Natural rhythm and flow of their movement, personality, everything. Some people resemble plants or flowers. Some people have more animalistic energy, some people feel like stone, unmoved, still...butoh also resembles my music in that it uses poetry or words for notation more than some traditional idea of choreography. Sometimes these are hard to explain for people who want to "understand" and explain things, as they are more of mental imagery to be expressed without thinking. That is why I think, that often people who understand poetry and abstractions become much better butoh dancers than those who have trained their body and flexibility. Even though it is only your body, it is not about your body, but your spirit. There is very often heard the separation or competitive attitude between contemporary dance and butoh, but the way I see it is, that in contemporary dance the body is dancing in space. In butoh, the space is pulling the body. I sometimes half-jokingly say, that the difference is contemporary dancers train their body, butoh dancers train their mind.
The purpose of the musician is to sculpt the landscape that pulls the body. Not music for dancing or performance, but a ritual of nonexistence, not-being,. If you think butoh in terms of dance, you are on the wrong path. If you think sound in terms of music, you are on the wrong path. They are neither. They can be both, as in every imaginable sound in the universe can be analyzed coincidently through terms of pitch and pulse, and every body based movement can be interpreted in terms of dance, but the reality they exist in is separate from that.
And I think this is why abstract music, or noise or industrial, whatever you want to call it, works as a fitting framework for butoh. One element that I think is important as a personal preference is low fidelity instead of high fidelity. For example also in filming a performance, but especially in terms of sound. If the aim of the atmosphere is the collapse of body, collapse of mind, identity, decay and disintegration, rusting of personality and memory, the methods used need to speak the same language as the butoh dancer. I have seem some performances where I couldn't focus on anything the dancer was doing as the sound world appeared to be from a completely separate world with everything else. Also filming the performance, in this day and age when everything is ultra HD Idontevenknowwhat"k"arethegoingoninnow, I have still not seen any recorded performance that would have overcome the power of those grainy films from the 1970's and 1980's. The reason is not that the butoh was better, I think there are amazing butoh artists right now, I think it is more about how the ideas of documentation have changed in the current era. You don't need to see all of the world all the time. Night is supposed to be dark. Leave things unclear and have the imagination fill in the gaps. In the age of ultra HD, there is no room for ghosts. That is why I consider tape also absolutely the most fitting format for my music, as it wears down with time and eventually disintegrates and disappears into a mass of.. sound. To me that is a perfect depiction of a human consciousness. It is something beyond words, that both butoh and my music reach out for.
Low fidelity and tape decay will create the fitting atmosphere for butoh, rather quickly and efficiently. Of course live instrumentation, environmental sound, acoustic instruments and especially self-built electro-acoustic instruments work too, anything a body can do works also really well. I aim to create a rhythm not for dancing, but for a body. One element is there for the heavy beating of the heart, other for breaths, some sounds for metabolism, some for blood flow, etc. I also love the strange musicality of metal, of springs and wires, plates, broken cymbals.. They are to me the very first touch I had with music, before I knew how to make any of it, as a child in the countryside, scraping the huge metal doors of barns or sides of tractor carts, concrete mills, whatever there was that could make a sound. Last year, while harvesting rice I actually realized how much the simple field works and countryside life has affected my sense of rhythm. I think in that rural sense of rhythm there is definitely something that is common to many Finnish and Japanese people who grew up like myself, probably it can be universal for certain generations, something that I think is definitely belonging to the world long gone though. And I think, in some strange way, that kind of seemingly minute thing might have also been what has made my sound fitting for butoh also. I think life is an accumulation of mistakes, coincidences and strange circumstances. Somehow I have found my home in the world of butoh, working in between the narrow marginals of the subgenres of underground culture, and it has brought me many amazing friendships, collaborations and interesting ideas and filled me with gratitude and love for what I do, to this path that I have dedicated my life to and intend to keep on doing so in the future also. I made this album to go along with the text. https://junkyardshaman.bandcamp.com/album/the-poetry-of-flesh-and-rust













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