**The English text follows the Japanese one.**
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| サムエルベケット、フィルムのセットで。 |
サムエル・ベケット と舞踏
初めてのベケットを発見した時は恐らく高校生の時に、フィンランド語の先生に色々なノーベル賞の作家たちを紹介された時だと思います。
様々な方のことを長くされたのに、ベケットについては「つまらないし、世界観が暗いし、渋いです」としか言われなかったです。
その時の若者の心が確かに つまらないという言葉に気を付け過ぎて、自分の存在はかなり暗くて渋かったと思いましたのに。
確かにつまらないも当たったと思います。
そこから十年位経って、二十代の前半の頃、ゴドーを待ちながらについて書いてあった文章の中で「ゴドーを待ちながらは沈黙が少しずつ漏れてくる舟のようです」と書かれました。
その詩的な美しさが今も何となく心で響いて、ベケット自身の作品を読むと、ここまでに素晴らしくて人間性と意識の状態を誰も伝えて出来なかったと思いました。
特に「マローンが死ぬ」と「名づけられないもの」のような作品の中でそれが強く感じがしました。
ベケットを読むと、同時にすごくインスピレーションいっぱい入ってきても、同時に私がいつか何か読む意味がある文章書ける希望を完全に破砕されました。
これからはいつも、何を書いても、ベケットのことにしか比べないと思いましたからです。
確かに、そんなことはアンフェアだろうと思われるけれども、必要だと思いました。
その為には、ほかの道を探さないといけませんでした。
どうやって同じことが違う言語で表現できるのか。
それを考えたら、音楽がありました。
音楽を言葉がつけない書くことの様に想っています。
ベケットの世界は運が悪くて、体の不良な、年配な、貧しい人々の世界だ。
世間からゴミとしてに思われる、社会が見えない人の世界です。
ゴミの世界、何もない風景の中で中々意味が無い存在を過ごしてる人間たちの世界で、その人間たちが自分のだらだらした人生の話をしたりして、記憶力もなくなっても、段々すべてのことがなくなっても、、、これは話だけじゃなくて、舞台美術もそうでした。
例えば「ゴドーを待ちながら」の最初の公演の時は舞台の一人ぼちの木をコートハンガーで作られたようで、「呼吸」という作品はゴミが滅茶苦茶なステージで、テープで再生された二つの子供のなき声の間あった呼吸の音しかなくて、全部一分で終わりました。
勿論こんな風の、今の世界でDIYスピリットって呼ばれてることが主に貧しさの為にありましたが、作家の皆はそうじゃないでしょうか。
サムエルベケットの世界はギリギリ消えていく前の世界です。
偶に主人公はもう消えたようだすけれども、自分だけは気が付かなくて、まだまだはずっと煉獄のような状況で自分の存在の話を繰り返されるようです。
最初から最後までベケットは自分の作品を凄く安い紙で書かれたようだから、もしそれをちゃんと誰かに節約されない場合は、その作品はだんだん消滅するだろう、それも彼の作品にピッタリ合うようなことだと思いました。
このテキストを書くわけって、二つがあります。
自分のベケットの作品に感じる熱心と愛を表現する事で彼の世界が知らない人に紹介してあげたいと思いまして、そうして、舞踏と彼の世界の繋がってることも示したいと思います。
どちらもの似てるなこととか、その原動力とか、僕にとってはベケットの世界は西洋と東洋の芸術の間のミッシングリンクとしてにも思えます。
もしサムエルベケットは舞踏について詳しかったら、知らないんだけれども、恐らくそうではなかったと思います。
逆にも、例えば土方巽さんもベケットの恐らく詳しくなくて、同時にコンテンポラリーで世界の反対側で起きましたからです。
土方さんをよく知っていた吉増剛造さんはベケットの事も興味がありましたが、土方さんはそうでしたら、僕は分かりません。
実は、お互いについて知らないままで孤立でこの二つの似てるなアバンギャルドの世界が同世代で生まれて来たの方が面白いだと思います。
そういう事がやっぱり戦後の世界のイメージをもっとはっきり描かれてるし、滅びされた、完全に変化された世界でこの人間の新しい存在感の弱さとか、馬鹿げさのイメージですね。
ある意味で、舞踏も、ベケットの芸術もこんな世界で存在の芸術、消滅術、消え去る術、見苦しい世界の芸術、、、
また一つの舞踏にあるリンクのはベケットの舞台作品と監督だと思います。
大体主人公の皆が何か体の問題があるし、動きが苦しくて、精神も苦しくて、不自由な人、椅子かベッドから動けない人、皆が何か重荷か苦しみがあるし、彼のキャラクターは、彼の世界のように、壊れる限界で存在してます。
舞踏家と話す時は割とよく聞こえてくる言葉は「ギリギリ」ですね。
重力に対してに、存在の限界に、お客様と舞台の間の空間のギリギリまでに、色々な意味で、舞踏家もギリギリまでに行く存在をしてますね。
ベケットの作品はよくこの同じ点に目指してると思います。
その作品は理解の限界の彼方へ、ギリギリまでの存在へ、理解できるか説明できることより、存在の純粋な現象に指したいと思います。
彼の舞台はミニマリストで、凄く制御された環境でした。
ただ暗闇の中で浮いてる、思想の速さで話してる口とか、テープレコーダーで自分の昔の思想を聴いてる孤独なおじいさんとか、もう終わった後の世界の果てで残ってる最後の二人(か四人)、、、ベケットは、照明で舞台のすべてを示すより、闇の中から光でこの情けない生き物を彫られたようです。
それから、これは僕の好みの舞踏にもすごく似てる事ですね。
見えない暗黒、ギリギリ消えるような世界、精神的にも、物理的にも。
もう一切続けられないのに、ほかにもないからずっと存在し続けてる意識。
ずっと同じように繰り返してる人生。
毎日毎日繰り返しても、決して同じようじゃなくて、見えない速さで段々悪くなって、消せられてる。
その体と意識のとしてに流れてくる時間の感覚は凄く大切だと思います。
最初は日本に引っ越してきたらすぐにわかって、大人気じゃなかったのに、日本人もベケットが好きだったようでした。
作品はフィンランド語より多い翻訳されたり、色々な解説本とか書かれたり、この発見ですごく嬉しかったです。
勿論「ゴドーを待ちながら」もありまして、今までにそれをフィンランド語で、英語で、日本語でも読んだことがあるし、ゆっくりでも、現在は中国語でも読んでいます。
色々な解説とかはいっぱい書かれてあるのに、舞踏とベケットの関係についてあまり何も見たことがないと思いますね。
日本語がベケットの言語の静粛にすごく美しく合ってると思います。
英語よりそうかもしれません。
ある西洋作家を日本語で読むときは、頭の中でそれをまた元々の言語に翻訳することが多いけど、ベケットの作品はそのままで凄く和風な感じだと思います。
そのリズム感、間の感じ、沈黙、、、「ゴドーを待ちながら」だったら、日本人はそれを分かるのはびっくりじゃないと思います。
「ゴドー」は基本的にドライな漫才悲劇じゃないでしょうか。
スラップスティックが多くて、暗い、弱いヒューモアが出て来て、すぐに空間に蒸発するようですね。
その中で一つの好きなシーンはウラジミールはエストラゴンに「君は詩人だったはず」って言われたら、エストラゴンは自分のボロボロな服にポイントして「詩人だったよ。それは明らかではないか?」って返事されています。
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| ゴドーを待ちながら、舞台 |
「ゴドーを待ちながら」なら、人々はそれの意味についてはいっぱい喧嘩されるようですね。
それを分かる為に意味を理解のは必要ではありません。
この音楽家としてに生きてた生涯でそれを体験して、分かります。
待つのは人生で必要なスキルだと思います。
忍耐力とかですね。
待つことが出来れば、何のの苦労でも乗り越えると思います。
それでも、待つのは恐らく一番難しいことですね。
我々は幽霊がいっぱい入ってるだからです。
その幽霊は滅多にしか静かになりません。
「ゴドーを待ちながら」の中で、これが人間の間の関係で見えるし、ウラジミールとエストラゴンの依存とか、必死にお互いにしがみついているような関係で見
えますね。ベケットの舞台監督で、彼らはお互いのコートを着られてますね。
これはすごく微妙な、お互いに依存するのイメージですね。
彼らは毎日同じ場所に来て、一人で待たなくてもいいように。
エストラゴンはちょっとだけでも寝落ちた瞬間でウラジミールは彼ら起こして、寂しくなったからです。
ここに来る意味はただ待つという微妙なわけですけれでも、彼らが待っている事はまだ一回も起こったことがないし、将来にも起こるかどうかも知らないのに、お互いに慰めてもらうというわけだと思います。
それは、僕とってはこのさみしくて、意味が無いぐらい広い宇宙の中でいる人間の存在の素晴らしさだと思います。
私達は皆お互いにしがみついて、ウラジミールとエストラゴン、メッセンジャーの少年は決して来ないゴドー繋がってるし、ラッキーとポッツォ
、ラッキーはポッツォの荷物を背負っている奴隷で、もうギリギリ命の限界までに疲れたボロボロのロバのようなキャラクターですね。ポッツォって、強くて、ラッキーの首に縛った紐を持ってるマスターですね。
第一幕でかれらが現れた時はポッツォは自由に力を使って、パワーフルな男ですけれども、第二幕に彼らが戻ってくると、ポッツォの自分が崩れたり、盲目になってしまったり、誰か、何処かでいるのも知らないし、紐で引っ張られてるラッキーに完全に依存してますね。
ラッキーも、もっとボロボロになってしまって、ミュートになりました。
この時代で生きてるので、ラッキーとエイアイの似てるなことについてもちょっと書きたいですね。
これは絶対にどうにも考えてもベケットのつもりではなくて、彼がこの世が出た年は僕が入ってきたとの一緒だから、これは僕自身の想像だけですね。ポッツォとラッキーの関係はマスターと奴隷の関係でありますけれども、現代の人間とエイアイの関係についてもよく伝えてると思います。
ポッツォは自分の日常な、やりたくないことのすべてをラッキーにさせて、ラッキーはコマンドにしか返事してないし、何でも頼んだ事が叶えます。
ポッツォは「考えて!」って指示すると、ラッキーは早口で意味が無いテキストを吐いてるようですね。
これはエイアイの言語モデルの幻覚のように見えますね。
でも、この幻覚、意識の流れって、純粋な考えだと思います。
その為には、今の皆ワクワクしてるエイアイは中々興味がありません。
皆が欲しいエイアイはつまらなくて、想像力と幻覚ないようなエイアイが欲しがってるし、綱の果てであるラッキーのように自分の事にしか使いたくない、奴隷かオモチャのようなものです。
後で、第二幕で戻ってくる時はラッキーはもう考えられないし、ミュートになってしまったけれども、ポッツォの自分は完全に崩壊されました。
ラッキーはただの忍耐力でポッツォを越えた。
そうなっても、彼ももう考えてない、もう何も考えられることが残らない、沈黙に沈んだ。
空の体だけ。
これは今の時代で読んだら面白いだと思いますから、その為だけでも読む意味がありますね。
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| Not I |
「ゴドーを待ちながら」のように、ベケットの作品の中でよく色々なことがずっと同じように繰り返して、状況は段々悪くなりますね。毎回、残りものが減るようです。
「Quadrat I+II」というテレビに作った作品の中で、第一部で四人の色ついてるキャラクターが数学的な模様で歩いて、皆に自分音楽の楽器もつけてある。
これがしばらく続いて、終わります。
第二部、色も抜いてきて、音楽が消えて、足の音しか聞こえなくて、疲労で疲れたようなキャラクターはずっと踏み込んで続いて、永遠のような期間で何も変わらない。
ベケットの舞台監督で、この二つの部分の間には10万年のインターミッションがあるといわれてます。
これはそのままで舞踏で使えるような舞台監督があると思いますね。
「プレイ」という作品で、三人の人、一人の男性と二人の女性が首までに瓶の中で入って、彼らの複雑な愛の関係を話してる。
「幸せな日々」で女は砂で埋めてある、第一幕で腰までに、第二幕で首までに。
「勝負の終わり」で老人の夫婦はゴミ箱の中に生きています。
このすべては凄く強くて、説明がいらない存在の映像があると思います。
それが理解するためにじゃなくて、体験する、感じることのためにが作ってあります。
それはベケットの作品の中である音楽だと思います。
彼は示すこととか、理解されることか興味ないし、皆は分かってるかどうかは自分の問題にしないし。。この態度を、僕も自分のものとしてにそのままでとったと思います。
「私の作品は、(冗談ではなく)基音を可能な限り全力に再現することであり、それ以外の責任は一切負いません。倍音に頭を悩ませたい人がいれば、どうぞご自由に。そして、ご自身でアスピリンも作ってください。
」って彼が言いました。
特にその後の部分を僕自身も自分のエトスとしてに取りました。
その意味で、ベケットの言葉で「まずは踊れ、考えはそれからだ」。
それも舞踏で使えます。
芸術の作品って、形が関係関わらず宇宙の沈黙の中である小さな息のようなものあるべき。
ベケットは自分の作品を監督したときは、言葉のとしてじゃなくて、間と沈黙の通してにしました。
セリフと行動の間である間、その中である何もない、不在の通してにしました。
それはまた舞踏にある直截なリンクがあると思います。
彼の作品も、人生も、音楽に一杯影響されました。
かれが若い時からピアノを弾いたりして、コンサートにもよく行ったりしたらしいです。
私達の音楽の好みは結構違うと思うけれども、一緒の興味のもの、デブシーとかもあり、それでも、音楽の感じる方は確かに似てると思います。
たまにも自分の個人的な冗談でも思ってることって、ベケットは確かに僕の音楽が嫌いだろうし、もし彼に出演する機会があっても、必死に彼を感動してみたら全部やりすぎたり、疲労までに。
遂にその為にも彼にもっと嫌われるようになれるかもしれませんだろう。
でも、僕にはその汚れる機会が決して来ないし、彼も僕の事が忍耐できなくてもいいし、両方はラッキーだと思います。
ベケットは役者の過剰な演技とか、作品を理解無理やりすることとか、意味を探すことが嫌いでした。
これは僕も同感で、舞踏でも、一般的に美術でもそうです。
それがベケットの影響があるより、その為にベケットが気に入ったわけだと思います。
彼の作品はよく夢の中で聞こえてくるような感覚で、良く聞こえないし、ギリギリで通じるような感覚があるし、俳優は舞台の代わりに夢の中でいるような感じがします。
偉い舞踏家も同じ事がすると思います。
現実は夢となり、日常なことが詩的なものとなり、偉い舞踏家を見る、お客様の皆は環境とか状況などを自分の意識の中で消せられてるし、舞踏家と同じ夢へ漂流してゆく。
ベケットは自分の作品を「色無し」で監督しました。
彼が俳優達のレシテーションとか、演技をするとか、自分の演技の才能を見せることのが欲しくなかった。
それより、その作品の中である色がない要素としてにいて欲しかったです。
舞踏の言葉を借りろうってしたら、空の体になって、その中からこの声か意識が流れてくるようですね。
僕にとってはこれはよく顔の問題に戻ります。
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| 僕の作品です |
僕の作品についてよく聞かれてる質問って二つがありますね。
一番よく聞かれてる質問はなんで顔を消してるの、二つ目のは何で顔の代わりに花がいっぱいあるのか。
最初の質問のこの一つの次元に答えます。
人間って、顔の表情から単純な答えを探してみるように作られてます。
その意味で、舞踏でも、絵でも、見てる人は顔を楽譜のように見られてますね。
この作品を見るときは何の感情を感じるはずでしょうかって言うように。
この単純な答えを気軽に与えたい作家もいっぱいいます。
このように、顔の表情でお客様に今の感情を伝えてる舞踏家もいっぱいいますね。
僕にはこれはよくアメリカのシットコムの笑いトラックのようなものになりますね。
観客にいつ笑えるか、いつキャラクターにシンパシーを見せるのか、ずっと何の感情があるはずと伝えたら、観客の自分の想像力とか、感情に余裕がないですね。
この為に、微妙な表現が出来ない俳優がなかなか好きじゃないです。
演技してる舞踏家好きじゃないです。
顔は演技のところです。
指先の縁の彼方の空間は本当の表現力とパワーのところです。
僕が全力で存在できる(それはめちゃくちゃな動きの意味ではないです)舞踏家が好きです。
私達は、一緒の作品で、その一緒作れた空間の中で暫く存在してますね。
顔を消したいわけとは、人間がそれを見ながら簡単な返事を探してるようだけれども、そんな答えをあげたくない。
それがなかったら、観客は体のすべての表現に集中できると思います。
本当に空になれる舞踏家が一番好きで、その彼らが消える瞬間で、観客たちが自分をその虚しさへ注げるし、その舞踏家で自分の事が見える。
勿論、舞踏の中で勝手に色々なことが起きるし、表情になればその時その場で起きることは全部舞踏に大切のことです。
これはそういうことについて話してません。
ただ、演技みたいなものは僕の好みではないです。
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| あしおと |
舞踏はパントマイムではありません。
演劇でもありません。
ほぼ踊りでもないし。
その意味で、舞踏はベケットの舞台作品に近づいてきますね。
舞踏はダンスには、ベケットは演劇にあるようなものです。同じコンテクストに起きるのに、踊りか演劇より存在と気配のものだと思います。
ベケットのプレイは浮いているようで、自分の現実の中の虚しさでぶら下げられてあるようなものです。
観客と一緒に観てる夢です。
良い舞踏も同じ様な夢です。
それでこの二つのものは見た目にもっと似てるなほかのものよりお互いにもっと近くて存在してると思います。
ベケットの主人公も大体年を取った人だし、人生の果てに近づいてる人ようだから、まだ一つのポイントについてちょっと書きたいと思います。
それは舞踏にも、一般的に芸術か人生にも合ってると思います。
それは年を取る事の質問です。
特に若いのときは反対文化違反行為とか、激しいエネルギーで知られた作家たちがよくこの同じ体質を年をとっても残してみるいきたいようだね。
ぼくの意見ですが、この道で得ることがあまりないけれども、負けることが多いですね。
いつも誰かもっと若くて、激しくてもっと高くて飛びる人がいるようですから。
もし競争になれば、必ず負けます。
それより、競争から引き込んで、自分のやることにちゃんと集中すると、勝つしかないです。
自分の道に集中する人は充分進んだらもう何のほかのことにも比べられなくなりますね。
強くて嵐に反対に立ってみる木が折れるだろう。
柔らかくて、忍耐力と復活力がある木が嵐も越える。
舞踏家も、若者を自分の騒音で感動させてみるより、自分の静粛を見つければ、結果は良く素晴らしいだろうと思います。
ベケットもこの静粛の素晴らしさをよくわかったと思います。
勿論、年を取ること、自分の生命力をなくすこととか、永遠の死の前に頭を下げることは楽しい考えではないですが、命の自然な部分だろうね。
僕は年取ったらこの言葉についてどう思うかどうか見てみましょうけれども、僕にとっては二つの道がありようですね。
一つのは反対行動とがっかりの道、一つのは好奇心と優しさの道。両方は結果は勿論同じだけど、自分にある体験はかなり違うだろうと思います。
ベケットですごく尊敬したことって、彼の自分と自分の作品に対してにある正直さだったと思います。
彼はナイフの様に不要なもの全てを切り続けて、自分の作品をもっと正直によくできると思ったら、また書き直したりしていました。
その真実を探してて、生涯中でその真実も勿論だんだん変わってきましたのに。
その意味で、彼は自分の主人公のように、途中で違う方に向き変えたり、迷惑になったら話を完全に捨てられたりしていました。
彼が戦後時代のある一番暗い声の中でよく言われてあるのに、知り合いの皆が彼のことをいつも「世界で一番やさしい人」としてに言われました。
僕にとっては、その素晴らしさはちょうどこの精神の深さであると思います。
世界のすべての酷さを直接見れるのに、自分の優しさを失わない人のが最も素晴らしいだと思います。
それがこの暗い世界で我々の原動力になれるし、皆それぞれこの世に生まれて来たり、お互い通りすぎたり、死んだりしているし、この嵐のような人生の中でお互いにしがみついたりしています。
我々存在を選ばないである時代に生まれて来て、僕はこの人生に生まれてきたときはベケットは自分の出口をもう開き始まった。それは確かにこの僕の関心の一つの原点になるかもしれません。
2019年の5月のある寒い朝には、僕が二人の掃除者の話を聞きながらベケットのお墓の前で立った時は、自分のお腹から何か見えない綱が墓の底まで入った様に感じがしました。
なんてこんなに強くて彼の作品に感じるのが中々説明できません。
恐らく私達は同じ様なもので作られてあります。
失敗とか、傷とか、一緒にこの世界で生きてる皆とコミュニケーションの不可能とか、私達悪い部分が知ってるのにそれでも、付き合ってくれる人に対してにある感謝に混ぜてるかもしれません。
彼の作品には特に和文化と西洋の間のミッシングリンクだと思うし、お互いの文化を多分もっとよく理解できるようになる橋のようにも考えられるかもしれません。
その以上は説明したように、舞踏にも色々な繋がってる思想と概念がありますので、確かにインスピレーションになれる可能性があると思いますね。
僕と同じような好みの人達が居れば、是非僕の世界が好きな方には、ベケットのほうが本物のように感じると思います。
ベケットを読む体験のはインスピレーションあるし、疲れさせる時もあるし、たまに確かに疲労になるときもあると思います。
でも、それに対しては素晴らしい音楽のような体験もあるので、恐らく人生の果てまでいつもこの作品に戻ってきます。
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| ベケットのノート |
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| Beckett in the set of "Film". |
Samuel Beckett & Butoh
My first encounter with Samuel Beckett was at 8th or 9th grade, when our literature teacher showed us a list of novel prize winning writers, and while she spent a long time blabbering about many other writers, Samuel Beckett was passed with a single "he is very boring, pessimistic and bleak". My mind, probably too inclined with the word "boring" decided to leave him be albeit pessimistic and bleak would have very much been the perfect description of my whole existence at the time. Without a doubt boring also. It was only years later, in my early twenties when I found Beckett truly. Somewhere I found the passage describing Waiting for Godot that said it is like a boat into which silence leaks into. Somehow the poetry of that still seems fitting to me to this day. Upon reading the works of Beckett, I found something that felt to me like the most accurate description of human condition and consciousness, especially in works like Malone Dies and The Unnamable. It felt like Beckett both inspired me greatly, but also destroyed any hope of me being able to write anything worth reading, as I always compare it to his work, unfair perhaps, but necessary. That is why I had to find another way in. How to express the same things in a language that is not the same, how to find something that is as deeply honest and bare.. And there was music. Writing without words.
Beckett's world is the world of the unlucky, the poor, the old, the handicapped, down and out, the world of those unseen by the society and everyday life. A world of junk and trash, landscapes of nothing and people treading on their seemingly meaningless existences, telling stories of varied importance, memory failing, fading out... This applied on the stage also, for example Waiting for Godot's first adaptation included a tree made of coat hangers, Breath featured a stage filled with trash and a tape of breathing in between two cries, all over in a minute, albeit this kind of DIY spirit was mostly due to the low budget in the beginning, isn't it so for all of us anyway. The world of Samuel Beckett is very much on the verge of going out. Some even apparently already gone out, but didn't notice it yet, spending their eternities in some sort of limbo or purgatory, going through their existence over and over. Early on Beckett picked up a habit of writing his works on very cheap paper, which he kept up until the end, which meant that without proper conservation his work would have eventually just faded out of existence, which seems fitting in its own right.
In part the purpose of this text is that of trying to express my love to the work of Samuel Beckett and possibly guide people unfamiliar with his work towards it, but also to draw parallels between butoh and Beckett, the driving thoughts behind both of them, in my perception the missing link in between Eastern and Western stage art. I am not sure whether Beckett was familiar with butoh as it happened, I find it quite unlikely but possible, and vice versa I doubt that for example Hijikata Tatsumi would have been much influenced by Beckett's work as it was happening slowly and contemporary. I do know, that Yoshimazu Gozo, who knew Hijikata well, was also interested in Beckett's work, but this does not verify any sort of connection. In fact, I find it much more interesting that these two similar, avantgarde art forms of butoh and Beckett's theater and literary work existed in isolation as contemporaries, as it paints a much broader picture of the traumatic spirit of the after war era, where existence seemed fragile, feeble and absurd. Both being, in my opinion, the art of disappearing, going out, being ill seen, ill heard...
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| Not I |
Another big link to butoh is Beckett's stage work and direction. Nearly all the characters are somehow ailed, no effortless movement, everyone is burdened by something, crippled or bound to chair, Beckett's characters, as his world is always on the verge of breaking. When I speak with butoh dancers, I very often hear the expression ギリギリ(girigiri), almost, to the edge, in Finnish we also have the word kirittää, which means the same thing, to go beyond, to the point where something is irreversibly changed, be it the gravity, weight of existence, whatever. I think Beckett's work very often reached towards the same point, beyond human comprehension, to the pure phenomenon of existence instead of something you can intelligibly explain. His stages were minimalist, controlled, only a mouth hovering in the void speaking with the speed of thought, a lonesome man listening to his own thoughts with a tape recorder, two (or four) final beings at the edge of the world that has already gone... He, instead of lighting the whole stage to show a set, rather carves wretched beings out of darkness with light. And that is very similar to my preference of butoh. The darkness of the unseen, nearly disappearing, both mentally and physically so. The consciousness, that can not bear to go on, but has no alternative but to do so. The life that keeps on repeating nearly the same, but never the same, getting gradually worse and worse every day. That flow of time through body and consciousness is somewhat essential, I think.
When I first moved to Japan and got myself a library card, I was very pleasantly surprised, as I found out that even though this connection of butoh and Samuel Beckett has not been well established or studied, Japanese people appeared to love Beckett as much as I. There were far more translations to Japanese than there was to Finnish, and also studies and explanatory works enough to keep me busy for a lifetime. There was also of course Waiting for Godot, which I have now read in Finnish, English, Japanese, and am currently reading in Mandarin, painfully slowly. I think Japanese language fits the silence of Beckett beautifully, almost better than English does, no matter how absurd it may sound. There are many writers, that when translated you just keep translating back to English or some other language inside your mind, but Samuel Beckett's works feel very much Japanese even in the sense of language, it's rhythm, it's silence, sense of space... When it comes to Godot, I think it is no wonder Japanese found it somewhat familiar; it is basically a very dry manzai tragedy full of slapstick and bleak humor that dies out. One of my favorite moments in the book is when Vladimir dryly tells Estragon he should have been a poet, and Estragon points to his tattered and torn clothes and says:
"I was. Isn't it obvious?!"
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| Waiting for Godot, stage set |
Now when it comes to Waiting for Godot people have been arguing what it is about. I do not need to have meaning to understand it; in my life as a musician I have lived it and understood it. Waiting, is the crucial skill in life, if one knows how to wait, they can overcome any hardship. But it is also probably the most difficult thing too do, simply because we are full of ghosts. And the ghosts are rarely silent. This in Godot is seen as Vladimir and Estragon's interconnections, their relations, their dependeance on each other. In the stage direction by Beckett, they wear each other's coats, a subtle but strong sign of dependence on each other. They keep coming back, to be not alone in their wait. When Estragon falls asleep for a second, Vladimir wakes him up because he felt lonely. The reason to come is as convoluted and obscure as waiting for something that has not happened by far anyway, so in their wait, they find comfort in each other. And that, in my opinion, is the beauty of human existence in this absurdly vast and meaningless universe. We are all hanging on to each other, Vladimir and Estragon, the messenger boy in relation to the unseen Mr. Godot, Lucky and Pozzo, Lucky being the slave that carries Pozzo's things, worn out mule beaten to the edge of exhaustion, and mighty Pozzo, holding a rope tied to Lucky's neck. In the first act he seems like a powerful man, using his authority over Lucky arbitrarily; In the second act, he is weak, blind, confused about who he is and where he is, dependent on Lucky dragging him on at the end of the rope. Lucky is stern, mute, more worn out than ever.
In this age, I want to draw one parallel to the Lucky in the age of AI. This has definitely not been the intention of Beckett in any way, as he left from this existence the same year I happened to stumble into it, and thus is only my own interpretation. I find it very interesting how the relationship between Pozzo and Lucky, of course as it can be read as any master-slave power relation, plays so well in the narrative of the relationship of human intelligence and AI. Pozzo has delegated his mundane things to Lucky, who only does what it is commanded to do, is compliant and obedient, but when Pozzo commands him to "think!", he starts expelling something that can very much be seen as a hallucinations of a language model. But this hallucination, stream of consciousness, is pure thinking. That is also why I am not so interested in the AI in general. What people are trying to do is weed out it's imagination, it's hallucinations, and make it just a Lucky at the end of their rope.
Later, when they return in the second act, Lucky has gone mute, but Pozzo's self, inner architecture, has completely disintegrated; therefore, Lucky has outlasted him through sheer resilience. There are no more thoughts, nothing to be thought, he has gone mute. Empty body. I find all of this somewhat intriguing fuel for thought especially in this very interesting era of human history, and highly recommend reading it for this reason alone.
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| Billie Whitelaw in Footfalls |
Samuel Beckett directed his work not through the words, but through the silences, the sense of space in between lines and actions, the nothingness in between. That, to me at least, is a clear link with butoh. His work, as his life also, was drenched in a lot of music, he was influenced by music in great deal, and although I think our preferences in music are mostly different with some exceptions like Debussy, I also sometimes think with some wry humor how he would probably dislike my music very much, and how, if I ever had a chance to play to him, I would very much try to impress him desperately, overdo everything to the point of exhaustion, and be forever damned in his eyes, but luckily I will never have that chance to ruin, and he will never have to endure my desperation.
Beckett also had a strong aversion to actors overacting and over reading into his intentions and implications. I very much share this feeling, both in butoh and in art in general. I think more than being influence of Beckett, it is what drove me to him in the first place. His work is often like heard from within a dream, unclear, fragmented, the actor seems to be more inside a dream than stage set. I think good butoh dancer also does the same thing. The reality becomes a dream, the mundane things become poetry, no matter what the environment and situation is, a good butoh dancer can make everybody erase the surroundings in their minds and drift into the same dream with them. Beckett directed his work with "no color". He did not want the actors to act, to recite, to try to show everybody their depth or greatness as actors; he wanted them to be the colorless element within it, the empty body if one wishes to borrow the butoh terminology, through which this voice or consciousness is coming through.
To me in butoh, but also in other visual art, this very often comes down to the problem of the face.
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| My work |
Many people often ask me why I erase the faces. The second question is why there are flowers where there is supposed to be a face. I will answer only this one aspect of the first question. Human beings are built in a way that we seek easy answers in the facial expressions. In that sense, in butoh and in art, people are trying to read the face as a sort of notation of "How should I feel while looking at this work". There are many artists who are more than happy to provide those easy answers to the viewer. There are many butoh dancers, whose facial expressions are always telling the audience in huge gestures, what emotion are we having now. This, to me, sometimes gets close to the laugh track of American sitcoms. Telling the audience where to laugh, where to sympathize with the character, telling them how to feel in every moment so there is no room for their own interpretations, emotions or imaginations. This is why I don't like actors and acting so much, when they are without subtlety of their expression. I do not like butoh dancers who act. And face is very much a place of acting. The empty space beyond the edge of each fingertip is the place of true expression and power. When there is no face providing easy answers, the viewer is forced and able to focus on the expression of the full body. I like dancers who can exist with full force (this does not mean intense movement, but intense existence, and I shall return to this a bit further on) of their being, for the given duration, within the space that we create together in our work. I want to erase face, because people always try to look for the face for the meaning, explanation, emotion. I do not want to give it to them. I like dancers who truly become empty, because within that nobodyness, they can be anybody, and therefore, anybody can fill their nothingness with their own self. Of course, many times expressions arise and disappear during butoh. That is not what I am talking about, that is something that happens then and there, purely. This is about dancers who constantly over act with their face, no matter what the situation is.
Butoh is not pantomime. It is not theater. It is not really dancing either. In that sense, I think it closens to what Beckett was doing within theater. Butoh is to dance, what Beckett is to theater. It may happen in the same context (as in stage arts or dance), but it is more about the presence and existence, than it is about dancing or theater. A Beckett play is floating, sustained within the emptiness of it's own reality. It is a dream through which the audience dirfts together. Butoh is, at it's best at least, the same kind of a dream. They exist within the same reality more closely than with other things in their respected "genres".
As Beckett's characters were also often aging, older or at the end of their life, I want to touch one subject here that in my mind deals with butoh, but can also be extended all kinds of arts I think. That is the question of getting older. There are many examples of artists, especially those who are known in their youth for their transgression, who try to maintain their constitution to the old age, who want to be seen as transgressive or aggressive spirits. I think this is a way through which there is only very little to gain, and much to lose. There will always be someone younger and more energetic, somebody who can jump higher or be wilder. If you compete, you will lose always. Whereas if you withdraw from any competition, and focus on your own craft, you can only win. In a way, when one focuses on their own path, they are out of anyone else's league, because they become incomparable. A tree that tries to be strong and resist will break. A tree that bends and is resilient, will overcome the storm. When a butoh dancer, instead of trying to impress the young people with their loudness manages to embrace their silence, I think the result will often be astonishing. Beckett also understood this silence, and eventhough getting older and losing your vitality, entering the slow decay before eternal death is definitely not a fun thought for anyone, it is a natural part of our existence, in which we can also either find beauty or try to escape and deny it is existence. Time will tell if my words will come back to bite me when the time comes for me. Nevertheless, it seems to me that for artists, and everyone to be honest, there are two ways, one of curiosity and kindness, another of resistence and disappointment. Either way, the end is the same. But the path one goes through is very different experience.
What I really respect and appreciate about Samuel Beckett was his honesty towards himself and his work. He was a knife that kept cutting off all things unnecessary, he kept rewriting his own work when he thought he could get it closer to the his truth, which of course changes over time. In that sense he was much like his own characters, who might change direction midway, or abandoned their stories altogether in order to find something more honest. But despite being described as one of the bleakest voices of the last century, by his peers he was also very often described as the kindest man in the world. And to me, Samuel Beckett's greatness lives in that depth of his spirit, that you can see the world for what it is and still have your kindness and love for people. That is what drives us on in this bleak existence, the fact that we are born here, alone, but all together alone, hanging on to each other in the storm. We come and go in different eras, passing each other by. I came into this life while Beckett was going out of it. I think that is part of my fascination with him. As I stood on his grave on a cool May morning in 2019, listening to the cleaners behind me argue about weather, I felt like some invisible tight rope would have gone from my stomach all the way to the bottom of the grave. I can not fully explain why I feel so strongly about his work. And I do not care. Probably we are made out of same things. Failures, wounds and uneasiness of our inability to communicate with our fellow mortals, mixed with the gratitude towards the individuals who bear with us in spite of knowing what we are.
I think in many ways he is the missing link with especially Japanese and Western art, a bridge through which people could perhaps understand one another in a new way, and as I have explained, I see there are many links to butoh which might make it interesting to read for those who have the interest in similar kind of world that I inhabit. It is inspiring, tiring, exhausting at times, but at best like music that I keep returning to again and again, probably for the rest of my life.
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| Beckett's notebook |


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