2025/09/13

サムエルベケットと舞踏 Samuel Beckett & Butoh

**The English text follows the Japanese one.**

            

サムエルベケット、フィルムのセットで。

サムエル・ベケット  と舞踏


初めてのベケットを発見した時は恐らく高校生の時に、フィンランド語の先生に色々なノーベル賞の作家たちを紹介された時だと思います。
様々な方のことを長くされたのに、ベケットについては「つまらないし、世界観が暗いし、渋いです」としか言われなかったです。
その時の若者の心が確かに つまらないという言葉に気を付け過ぎて、自分の存在はかなり暗くて渋かったと思いましたのに。
確かにつまらないも当たったと思います。
そこから十年位経って、二十代の前半の頃、ゴドーを待ちながらについて書いてあった文章の中で「ゴドーを待ちながらは沈黙が少しずつ漏れてくる舟のようです」と書かれました。
その詩的な美しさが今も何となく心で響いて、ベケット自身の作品を読むと、ここまでに素晴らしくて人間性と意識の状態を誰も伝えて出来なかったと思いました。
特に「マローンが死ぬ」と「名づけられないもの」のような作品の中でそれが強く感じがしました。
ベケットを読むと、同時にすごくインスピレーションいっぱい入ってきても、同時に私がいつか何か読む意味がある文章書ける希望を完全に破砕されました。
これからはいつも、何を書いても、ベケットのことにしか比べないと思いましたからです。
確かに、そんなことはアンフェアだろうと思われるけれども、必要だと思いました。
その為には、ほかの道を探さないといけませんでした。
どうやって同じことが違う言語で表現できるのか。
それを考えたら、音楽がありました。
音楽を言葉がつけない書くことの様に想っています。


ベケットの世界は運が悪くて、体の不良な、年配な、貧しい人々の世界だ。
世間からゴミとしてに思われる、社会が見えない人の世界です。
ゴミの世界、何もない風景の中で中々意味が無い存在を過ごしてる人間たちの世界で、その人間たちが自分のだらだらした人生の話をしたりして、記憶力もなくなっても、段々すべてのことがなくなっても、、、これは話だけじゃなくて、舞台美術もそうでした。
例えば「ゴドーを待ちながら」の最初の公演の時は舞台の一人ぼちの木をコートハンガーで作られたようで、「呼吸」という作品はゴミが滅茶苦茶なステージで、テープで再生された二つの子供のなき声の間あった呼吸の音しかなくて、全部一分で終わりました。
勿論こんな風の、今の世界で
DIYスピリットって呼ばれてることが主に貧しさの為にありましたが、作家の皆はそうじゃないでしょうか。
サムエルベケットの世界はギリギリ消えていく前の世界です。
偶に主人公はもう消えたようだすけれども、自分だけは気が付かなくて、まだまだはずっと煉獄のような状況で自分の存在の話を繰り返されるようです。
最初から最後までベケットは自分の作品を凄く安い紙で書かれたようだから、もしそれをちゃんと誰かに節約されない場合は、その作品はだんだん消滅するだろう、それも彼の作品にピッタリ合うようなことだと思いました。


このテキストを書くわけって、二つがあります。
自分のベケットの作品に感じる熱心と愛を表現する事で彼の世界が知らない人に紹介してあげたいと思いまして、そうして、舞踏と彼の世界の繋がってることも示したいと思います。
どちらもの似てるなこととか、その原動力とか、僕にとってはベケットの世界は西洋と東洋の芸術の間のミッシングリンクとしてにも思えます。
もしサムエルベケットは舞踏について詳しかったら、知らないんだけれども、恐らくそうではなかったと思います。
逆にも、例えば土方巽さんもベケットの恐らく詳しくなくて、同時にコンテンポラリーで世界の反対側で起きましたからです。
土方さんをよく知っていた吉増剛造さんはベケットの事も興味がありましたが、土方さんはそうでしたら、僕は分かりません。
実は、お互いについて知らないままで孤立でこの二つの似てるなアバンギャルドの世界が同世代で生まれて来たの方が面白いだと思います。
そういう事がやっぱり戦後の世界のイメージをもっとはっきり描かれてるし、滅びされた、完全に変化された世界でこの人間の新しい存在感の弱さとか、馬鹿げさのイメージですね。
ある意味で、舞踏も、ベケットの芸術もこんな世界で存在の芸術、消滅術、消え去る術、見苦しい世界の芸術、、、

また一つの舞踏にあるリンクのはベケットの舞台作品と監督だと思います。
大体主人公の皆が何か体の問題があるし、動きが苦しくて、精神も苦しくて、不自由な人、椅子かベッドから動けない人、皆が何か重荷か苦しみがあるし、彼のキャラクターは、彼の世界のように、壊れる限界で存在してます。
舞踏家と話す時は割とよく聞こえてくる言葉は「ギリギリ」ですね。
重力に対してに、存在の限界に、お客様と舞台の間の空間のギリギリまでに、色々な意味で、舞踏家もギリギリまでに行く存在をしてますね。
ベケットの作品はよくこの同じ点に目指してると思います。
その作品は理解の限界の彼方へ、ギリギリまでの存在へ、理解できるか説明できることより、存在の純粋な現象に指したいと思います。
彼の舞台はミニマリストで、凄く制御された環境でした。
ただ暗闇の中で浮いてる、思想の速さで話してる口とか、テープレコーダーで自分の昔の思想を聴いてる孤独なおじいさんとか、もう終わった後の世界の果てで残ってる最後の二人(か四人)、、、ベケットは、照明で舞台のすべてを示すより、闇の中から光でこの情けない生き物を彫られたようです。
それから、これは僕の好みの舞踏にもすごく似てる事ですね。
見えない暗黒、ギリギリ消えるような世界、精神的にも、物理的にも。
もう一切続けられないのに、ほかにもないからずっと存在し続けてる意識。
ずっと同じように繰り返してる人生。
毎日毎日繰り返しても、決して同じようじゃなくて、見えない速さで段々悪くなって、消せられてる。
その体と意識のとしてに流れてくる時間の感覚は凄く大切だと思います。


最初は日本に引っ越してきたらすぐにわかって、大人気じゃなかったのに、日本人もベケットが好きだったようでした。
作品はフィンランド語より多い翻訳されたり、色々な解説本とか書かれたり、この発見ですごく嬉しかったです。
勿論「ゴドーを待ちながら」もありまして、今までにそれをフィンランド語で、英語で、日本語でも読んだことがあるし、ゆっくりでも、現在は中国語でも読んでいます。
色々な解説とかはいっぱい書かれてあるのに、舞踏とベケットの関係についてあまり何も見たことがないと思いますね。
日本語がベケットの言語の静粛にすごく美しく合ってると思います。
英語よりそうかもしれません。
ある西洋作家を日本語で読むときは、頭の中でそれをまた元々の言語に翻訳することが多いけど、ベケットの作品はそのままで凄く和風な感じだと思います。
そのリズム感、間の感じ、沈黙、、、「ゴドーを待ちながら」だったら、日本人はそれを分かるのはびっくりじゃないと思います。
「ゴドー」は基本的にドライな漫才悲劇じゃないでしょうか。
スラップスティックが多くて、暗い、弱いヒューモアが出て来て、すぐに空間に蒸発するようですね。
その中で一つの好きなシーンはウラジミールはエストラゴンに「君は詩人だったはず」って言われたら、エストラゴンは自分のボロボロな服にポイントして「詩人だったよ。それは明らかではないか?」って返事されています。

  

ゴドーを待ちながら、舞台

「ゴドーを待ちながら」なら、人々はそれの意味についてはいっぱい喧嘩されるようですね。
それを分かる為に意味を理解のは必要ではありません。
この音楽家としてに生きてた生涯でそれを体験して、分かります。
待つのは人生で必要なスキルだと思います。
忍耐力とかですね。
待つことが出来れば、何のの苦労でも乗り越えると思います。
それでも、待つのは恐らく一番難しいことですね。
我々は幽霊がいっぱい入ってるだからです。
その幽霊は滅多にしか静かになりません。
「ゴドーを待ちながら」の中で、これが人間の間の関係で見えるし、ウラジミールとエストラゴンの依存とか、必死にお互いにしがみついているような関係で見

えますね。ベケットの舞台監督で、彼らはお互いのコートを着られてますね。
これはすごく微妙な、お互いに依存するのイメージですね。
彼らは毎日同じ場所に来て、一人で待たなくてもいいように。
エストラゴンはちょっとだけでも寝落ちた瞬間でウラジミールは彼ら起こして、寂しくなったからです。
ここに来る意味はただ待つという微妙なわけですけれでも、彼らが待っている事はまだ一回も起こったことがないし、将来にも起こるかどうかも知らないのに、お互いに慰めてもらうというわけだと思います。
それは、僕とってはこのさみしくて、意味が無いぐらい広い宇宙の中でいる人間の存在の素晴らしさだと思います。
私達は皆お互いにしがみついて、ウラジミールとエストラゴン、メッセンジャーの少年は決して来ないゴドー繋がってるし、ラッキーとポッツォ 、ラッキーはポッツォの荷物を背負っている奴隷で、もうギリギリ命の限界までに疲れたボロボロのロバのようなキャラクターですね。ポッツォって、強くて、ラッキーの首に縛った紐を持ってるマスターですね。
第一幕でかれらが現れた時はポッツォは自由に力を使って、パワーフルな男ですけれども、第二幕に彼らが戻ってくると、ポッツォの自分が崩れたり、盲目になってしまったり、誰か、何処かでいるのも知らないし、紐で引っ張られてるラッキーに完全に依存してますね。
ラッキーも、もっとボロボロになってしまって、ミュートになりました。


この時代で生きてるので、ラッキーとエイアイの似てるなことについてもちょっと書きたいですね。
これは絶対にどうにも考えてもベケットのつもりではなくて、彼がこの世が出た年は僕が入ってきたとの一緒だから、これは僕自身の想像だけですね。ポッツォとラッキーの関係はマスターと奴隷の関係でありますけれども、現代の人間とエイアイの関係についてもよく伝えてると思います。
ポッツォは自分の日常な、やりたくないことのすべてをラッキーにさせて、ラッキーはコマンドにしか返事してないし、何でも頼んだ事が叶えます。
ポッツォは「考えて!」って指示すると、ラッキーは早口で意味が無いテキストを吐いてるようですね。
これはエイアイの言語モデルの幻覚のように見えますね。
でも、この幻覚、意識の流れって、純粋な考えだと思います。
その為には、今の皆ワクワクしてるエイアイは中々興味がありません。
皆が欲しいエイアイはつまらなくて、想像力と幻覚ないようなエイアイが欲しがってるし、綱の果てであるラッキーのように自分の事にしか使いたくない、奴隷かオモチャのようなものです。

後で、第二幕で戻ってくる時はラッキーはもう考えられないし、ミュートになってしまったけれども、ポッツォの自分は完全に崩壊されました。
ラッキーはただの忍耐力でポッツォを越えた。
そうなっても、彼ももう考えてない、もう何も考えられることが残らない、沈黙に沈んだ。
空の体だけ。
これは今の時代で読んだら面白いだと思いますから、その為だけでも読む意味がありますね。

 

Not I

「ゴドーを待ちながら」のように、ベケットの作品の中でよく色々なことがずっと同じように繰り返して、状況は段々悪くなりますね。毎回、残りものが減るようです。
Quadrat III」というテレビに作った作品の中で、第一部で四人の色ついてるキャラクターが数学的な模様で歩いて、皆に自分音楽の楽器もつけてある。
これがしばらく続いて、終わります。
第二部、色も抜いてきて、音楽が消えて、足の音しか聞こえなくて、疲労で疲れたようなキャラクターはずっと踏み込んで続いて、永遠のような期間で何も変わらない。
ベケットの舞台監督で、この二つの部分の間には10万年のインターミッションがあるといわれてます。
これはそのままで舞踏で使えるような舞台監督があると思いますね。
「プレイ」という作品で、三人の人、一人の男性と二人の女性が首までに瓶の中で入って、彼らの複雑な愛の関係を話してる。
「幸せな日々」で女は砂で埋めてある、第一幕で腰までに、第二幕で首までに。
「勝負の終わり」で老人の夫婦はゴミ箱の中に生きています。
このすべては凄く強くて、説明がいらない存在の映像があると思います。
それが理解するためにじゃなくて、体験する、感じることのためにが作ってあります。


それはベケットの作品の中である音楽だと思います。
彼は示すこととか、理解されることか興味ないし、皆は分かってるかどうかは自分の問題にしないし。。この態度を、僕も自分のものとしてにそのままでとったと思います。
私の作品は、(冗談ではなく)基音を可能な限り全力に再現することであり、それ以外の責任は一切負いません。倍音に頭を悩ませたい人がいれば、どうぞご自由に。そして、ご自身でアスピリンも作ってください。 」って彼が言いました。
特にその後の部分を僕自身も自分のエトスとしてに取りました。
その意味で、ベケットの言葉で「まずは踊れ、考えはそれからだ」。
それも舞踏で使えます。
芸術の作品って、形が関係関わらず宇宙の沈黙の中である小さな息のようなものあるべき。

ベケットは自分の作品を監督したときは、言葉のとしてじゃなくて、間と沈黙の通してにしました。
セリフと行動の間である間、その中である何もない、不在の通してにしました。
それはまた舞踏にある直截なリンクがあると思います。
彼の作品も、人生も、音楽に一杯影響されました。
かれが若い時からピアノを弾いたりして、コンサートにもよく行ったりしたらしいです。
私達の音楽の好みは結構違うと思うけれども、一緒の興味のもの、デブシーとかもあり、それでも、音楽の感じる方は確かに似てると思います。
たまにも自分の個人的な冗談でも思ってることって、ベケットは確かに僕の音楽が嫌いだろうし、もし彼に出演する機会があっても、必死に彼を感動してみたら全部やりすぎたり、疲労までに。
遂にその為にも彼にもっと嫌われるようになれるかもしれませんだろう。
でも、僕にはその汚れる機会が決して来ないし、彼も僕の事が忍耐できなくてもいいし、両方はラッキーだと思います。

 



ベケットは役者の過剰な演技とか、作品を理解無理やりすることとか、意味を探すことが嫌いでした。

これは僕も同感で、舞踏でも、一般的に美術でもそうです。
それがベケットの影響があるより、その為にベケットが気に入ったわけだと思います。
彼の作品はよく夢の中で聞こえてくるような感覚で、良く聞こえないし、ギリギリで通じるような感覚があるし、俳優は舞台の代わりに夢の中でいるような感じがします。
偉い舞踏家も同じ事がすると思います。
現実は夢となり、日常なことが詩的なものとなり、偉い舞踏家を見る、お客様の皆は環境とか状況などを自分の意識の中で消せられてるし、舞踏家と同じ夢へ漂流してゆく。

ベケットは自分の作品を「色無し」で監督しました。
彼が俳優達のレシテーションとか、演技をするとか、自分の演技の才能を見せることのが欲しくなかった。
それより、その作品の中である色がない要素としてにいて欲しかったです。
舞踏の言葉を借りろうってしたら、空の体になって、その中からこの声か意識が流れてくるようですね。
僕にとってはこれはよく顔の問題に戻ります。

 

 

僕の作品です

僕の作品についてよく聞かれてる質問って二つがありますね。
一番よく聞かれてる質問はなんで顔を消してるの、二つ目のは何で顔の代わりに花がいっぱいあるのか。
最初の質問のこの一つの次元に答えます。
人間って、顔の表情から単純な答えを探してみるように作られてます。
その意味で、舞踏でも、絵でも、見てる人は顔を楽譜のように見られてますね。
この作品を見るときは何の感情を感じるはずでしょうかって言うように。
この単純な答えを気軽に与えたい作家もいっぱいいます。
このように、顔の表情でお客様に今の感情を伝えてる舞踏家もいっぱいいますね。
僕にはこれはよくアメリカのシットコムの笑いトラックのようなものになりますね。
観客にいつ笑えるか、いつキャラクターにシンパシーを見せるのか、ずっと何の感情があるはずと伝えたら、観客の自分の想像力とか、感情に余裕がないですね。
この為に、微妙な表現が出来ない俳優がなかなか好きじゃないです。
演技してる舞踏家好きじゃないです。
顔は演技のところです。
指先の縁の彼方の空間は本当の表現力とパワーのところです。
僕が全力で存在できる(それはめちゃくちゃな動きの意味ではないです)舞踏家が好きです。
私達は、一緒の作品で、その一緒作れた空間の中で暫く存在してますね。
顔を消したいわけとは、人間がそれを見ながら簡単な返事を探してるようだけれども、そんな答えをあげたくない。
それがなかったら、観客は体のすべての表現に集中できると思います。
本当に空になれる舞踏家が一番好きで、その彼らが消える瞬間で、観客たちが自分をその虚しさへ注げるし、その舞踏家で自分の事が見える。
勿論、舞踏の中で勝手に色々なことが起きるし、表情になればその時その場で起きることは全部舞踏に大切のことです。
これはそういうことについて話してません。
ただ、演技みたいなものは僕の好みではないです。

 

あしおと

舞踏はパントマイムではありません。
演劇でもありません。
ほぼ踊りでもないし。
その意味で、舞踏はベケットの舞台作品に近づいてきますね。
舞踏はダンスには、ベケットは演劇にあるようなものです。同じコンテクストに起きるのに、踊りか演劇より存在と気配のものだと思います。
ベケットのプレイは浮いているようで、自分の現実の中の虚しさでぶら下げられてあるようなものです。
観客と一緒に観てる夢です。
良い舞踏も同じ様な夢です。
それでこの二つのものは見た目にもっと似てるなほかのものよりお互いにもっと近くて存在してると思います。

 

ベケットの主人公も大体年を取った人だし、人生の果てに近づいてる人ようだから、まだ一つのポイントについてちょっと書きたいと思います。
それは舞踏にも、一般的に芸術か人生にも合ってると思います。
それは年を取る事の質問です。

特に若いのときは反対文化違反行為とか、激しいエネルギーで知られた作家たちがよくこの同じ体質を年をとっても残してみるいきたいようだね。
ぼくの意見ですが、この道で得ることがあまりないけれども、負けることが多いですね。
いつも誰かもっと若くて、激しくてもっと高くて飛びる人がいるようですから。
もし競争になれば、必ず負けます。
それより、競争から引き込んで、自分のやることにちゃんと集中すると、勝つしかないです。
自分の道に集中する人は充分進んだらもう何のほかのことにも比べられなくなりますね。
強くて嵐に反対に立ってみる木が折れるだろう。
柔らかくて、忍耐力と復活力がある木が嵐も越える。
舞踏家も、若者を自分の騒音で感動させてみるより、自分の静粛を見つければ、結果は良く素晴らしいだろうと思います。
ベケットもこの静粛の素晴らしさをよくわかったと思います。
勿論、年を取ること、自分の生命力をなくすこととか、永遠の死の前に頭を下げることは楽しい考えではないですが、命の自然な部分だろうね。
僕は年取ったらこの言葉についてどう思うかどうか見てみましょうけれども、僕にとっては二つの道がありようですね。
一つのは反対行動とがっかりの道、一つのは好奇心と優しさの道。両方は結果は勿論同じだけど、自分にある体験はかなり違うだろうと思います。


ベケットですごく尊敬したことって、彼の自分と自分の作品に対してにある正直さだったと思います。
彼はナイフの様に不要なもの全てを切り続けて、自分の作品をもっと正直によくできると思ったら、また書き直したりしていました。
その真実を探してて、生涯中でその真実も勿論だんだん変わってきましたのに。
その意味で、彼は自分の主人公のように、途中で違う方に向き変えたり、迷惑になったら話を完全に捨てられたりしていました。
彼が戦後時代のある一番暗い声の中でよく言われてあるのに、知り合いの皆が彼のことをいつも「世界で一番やさしい人」としてに言われました。
僕にとっては、その素晴らしさはちょうどこの精神の深さであると思います。
世界のすべての酷さを直接見れるのに、自分の優しさを失わない人のが最も素晴らしいだと思います。
それがこの暗い世界で我々の原動力になれるし、皆それぞれこの世に生まれて来たり、お互い通りすぎたり、死んだりしているし、この嵐のような人生の中でお互いにしがみついたりしています。
我々存在を選ばないである時代に生まれて来て、僕はこの人生に生まれてきたときはベケットは自分の出口をもう開き始まった。それは確かにこの僕の関心の一つの原点になるかもしれません。
2019年の
5月のある寒い朝には、僕が二人の掃除者の話を聞きながらベケットのお墓の前で立った時は、自分のお腹から何か見えない綱が墓の底まで入った様に感じがしました。
なんてこんなに強くて彼の作品に感じるのが中々説明できません。
恐らく私達は同じ様なもので作られてあります。
失敗とか、傷とか、一緒にこの世界で生きてる皆とコミュニケーションの不可能とか、私達悪い部分が知ってるのにそれでも、付き合ってくれる人に対してにある感謝に混ぜてるかもしれません。


彼の作品には特に和文化と西洋の間のミッシングリンクだと思うし、お互いの文化を多分もっとよく理解できるようになる橋のようにも考えられるかもしれません。
その以上は説明したように、舞踏にも色々な繋がってる思想と概念がありますので、確かにインスピレーションになれる可能性があると思いますね。
僕と同じような好みの人達が居れば、是非僕の世界が好きな方には、ベケットのほうが本物のように感じると思います。
ベケットを読む体験のはインスピレーションあるし、疲れさせる時もあるし、たまに確かに疲労になるときもあると思います。
でも、それに対しては素晴らしい音楽のような体験もあるので、恐らく人生の果てまでいつもこの作品に戻ってきます。

 

ベケットのノート

 

 

 

Beckett in the set of "Film".

Samuel Beckett & Butoh


My first encounter with Samuel Beckett was at 8th or 9th grade, when our literature teacher showed us a list of novel prize winning writers, and while she spent a long time blabbering about many other writers, Samuel Beckett was passed with a single "he is very boring, pessimistic and bleak". My mind, probably too inclined with the word "boring" decided to leave him be albeit pessimistic and bleak would have very much been the perfect description of my whole existence at the time. Without a doubt boring also. It was only years later, in my early twenties when I found Beckett truly. Somewhere I found the passage describing Waiting for Godot that said it is like a boat into which silence leaks into. Somehow the poetry of that still seems fitting to me to this day. Upon reading the works of Beckett, I found something that felt to me like the most accurate description of human condition and consciousness, especially in works like Malone Dies and The Unnamable. It felt like Beckett both inspired me greatly, but also destroyed any hope of me being able to write anything worth reading, as I always compare it to his work, unfair perhaps, but necessary. That is why I had to find another way in. How to express the same things in a language that is not the same, how to find something that is as deeply honest and bare.. And there was music. Writing without words.


Beckett's world is the world of the unlucky, the poor, the old, the handicapped, down and out, the world of those unseen by the society and everyday life. A world of junk and trash, landscapes of nothing and people treading on their seemingly meaningless existences, telling stories of varied importance, memory failing, fading out... This applied on the stage also, for example Waiting for Godot's first adaptation included a tree made of coat hangers, Breath featured a stage filled with trash and a tape of breathing in between two cries, all over in a minute, albeit this kind of DIY spirit was mostly due to the low budget in the beginning, isn't it so for all of us anyway. The world of Samuel Beckett is very much on the verge of going out. Some even apparently already gone out, but didn't notice it yet, spending their eternities in some sort of limbo or purgatory, going through their existence over and over. Early on Beckett picked up a habit of writing his works on very cheap paper, which he kept up until the end, which meant that without proper conservation his work would have eventually just faded out of existence, which seems fitting in its own right.


In part the purpose of this text is that of trying to express my love to the work of Samuel Beckett and possibly guide people unfamiliar with his work towards it, but also to draw parallels between butoh and Beckett, the driving thoughts behind both of them, in my perception the missing link in between Eastern and Western stage art. I am not sure whether Beckett was familiar with butoh as it happened, I find it quite unlikely but possible, and vice versa I doubt that for example Hijikata Tatsumi would have been much influenced by Beckett's work as it was happening slowly and contemporary. I do know, that Yoshimazu Gozo, who knew Hijikata well, was also interested in Beckett's work, but this does not verify any sort of connection. In fact, I find it much more interesting that these two similar, avantgarde art forms of butoh and Beckett's theater and literary work existed in isolation as contemporaries, as it paints a much broader picture of the traumatic spirit of the after war era, where existence seemed fragile, feeble and absurd. Both being, in my opinion, the art of disappearing, going out, being ill seen, ill heard...

Not I

Another big link to butoh is Beckett's stage work and direction. Nearly all the characters are somehow ailed, no effortless movement, everyone is burdened by something, crippled or bound to chair, Beckett's characters, as his world is always on the verge of breaking. When I speak with butoh dancers, I very often hear the expression ギリギリ(girigiri), almost, to the edge, in Finnish we also have the word kirittää, which means the same thing, to go beyond, to the point where something is irreversibly changed, be it the gravity, weight of existence, whatever. I think Beckett's work very often reached towards the same point, beyond human comprehension, to the pure phenomenon of existence instead of something you can intelligibly explain. His stages were minimalist, controlled, only a mouth hovering in the void speaking with the speed of thought, a lonesome man listening to his own thoughts with a tape recorder, two (or four) final beings at the edge of the world that has already gone... He, instead of lighting the whole stage to show a set, rather carves wretched beings out of darkness with light. And that is very similar to my preference of butoh. The darkness of the unseen, nearly disappearing, both mentally and physically so. The consciousness, that can not bear to go on, but has no alternative but to do so. The life that keeps on repeating nearly the same, but never the same, getting gradually worse and worse every day. That flow of time through body and consciousness is somewhat essential, I think.

When I first moved to Japan and got myself a library card, I was very pleasantly surprised, as I found out that even though this connection of butoh and Samuel Beckett has not been well established or studied, Japanese people appeared to love Beckett as much as I. There were far more translations to Japanese than there was to Finnish, and also studies and explanatory works enough to keep me busy for a lifetime. There was also of course Waiting for Godot, which I have now read in Finnish, English, Japanese, and am currently reading in Mandarin, painfully slowly. I think Japanese language fits the silence of Beckett beautifully, almost better than English does, no matter how absurd it may sound. There are many writers, that when translated you just keep translating back to English or some other language inside your mind, but Samuel Beckett's works feel very much Japanese even in the sense of language, it's rhythm, it's silence, sense of space... When it comes to Godot, I think it is no wonder Japanese found it somewhat familiar; it is basically a very dry manzai tragedy full of slapstick and bleak humor that dies out. One of my favorite moments in the book is when Vladimir dryly tells Estragon he should have been a poet, and Estragon points to his tattered and torn clothes and says:

"I was. Isn't it obvious?!"

Waiting for Godot, stage set

 

Now when it comes to Waiting for Godot people have been arguing what it is about. I do not need to have meaning to understand it; in my life as a musician I have lived it and understood it. Waiting, is the crucial skill in life, if one knows how to wait, they can overcome any hardship. But it is also probably the most difficult thing too do, simply because we are full of ghosts. And the ghosts are rarely silent. This in Godot is seen as Vladimir and Estragon's interconnections, their relations, their dependeance on each other. In the stage direction by Beckett, they wear each other's coats, a subtle but strong sign of dependence on each other. They keep coming back, to be not alone in their wait. When Estragon falls asleep for a second, Vladimir wakes him up because he felt lonely. The reason to come is as convoluted and obscure as waiting for something that has not happened by far anyway, so in their wait, they find comfort in each other. And that, in my opinion, is the beauty of human existence in this absurdly vast and meaningless universe. We are all hanging on to each other, Vladimir and Estragon, the messenger boy in relation to the unseen Mr. Godot, Lucky and Pozzo, Lucky being the slave that carries Pozzo's things, worn out mule beaten to the edge of exhaustion, and mighty Pozzo, holding a rope tied to Lucky's neck. In the first act he seems like a powerful man, using his authority over Lucky arbitrarily; In the second act, he is weak, blind, confused about who he is and where he is, dependent on Lucky dragging him on at the end of the rope. Lucky is stern, mute, more worn out than ever.

In this age, I want to draw one parallel to the Lucky in the age of AI. This has definitely not been the intention of Beckett in any way, as he left from this existence the same year I happened to stumble into it, and thus is only my own interpretation. I find it very interesting how the relationship between Pozzo and Lucky, of course as it can be read as any master-slave power relation, plays so well in the narrative of the relationship of human intelligence and AI. Pozzo has delegated his mundane things to Lucky, who only does what it is commanded to do, is compliant and obedient, but when Pozzo commands him to "think!", he starts expelling something that can very much be seen as a hallucinations of a language model. But this hallucination, stream of consciousness, is pure thinking. That is also why I am not so interested in the AI in general. What people are trying to do is weed out it's imagination, it's hallucinations, and make it just a Lucky at the end of their rope.

Later, when they return in the second act, Lucky has gone mute, but Pozzo's self, inner architecture, has completely disintegrated; therefore, Lucky has outlasted him through sheer resilience. There are no more thoughts, nothing to be thought, he has gone mute. Empty body. I find all of this somewhat intriguing fuel for thought especially in this very interesting era of human history, and highly recommend reading it for this reason alone. 


 
As in Waiting for Godot also, in many of Beckett's works, everything keeps happening again and again. Everything repeats, but worse and worse. Every time, less left. In Quadrat I+II, a play he made for television, there is first part, in which four colorful characters are moving in formation, each one is represented with a instrument and each one moving on nearly a matemathical path, repeatedly. This goes on for a while, and ends. In the second part, the colors have worn out, the music is gone. Only the heavy sound of dragging feet is heard. Still they go on. Endlessly. Beckett said, that in between the I and II, there is an intermission of 100 000 years... This thought, I think, is a very fitting one for butoh as a stage direction as it is. In Play three characters, one man and two women, are stuck in a purgatory, up to their neck in giant jars, going through their love triangle. In Happy Days a woman is buried in sand first up to her waist in the first act, then up the her neck in the second. In Endgame an old couple are living inside trash cans. All of these are very strong images of existence as is, without any need to explain or elaborate further. They are to be experienced, not understood.
 
 

Billie Whitelaw in Footfalls
And that is the music in Beckett's work. He is not interested in showing, explaining, making sense or worry about being understood, and that is an attitude I have very much adopted as my own. "My work is a matter of fundamental sounds (no joke intended) made as fully as possible, and I accept responsibility for nothing else. If people want to have headaches among the overtones, let them. And provide their own aspirin. ", he said. Especially the latter part I have taken as a some sort of golden rule for my own work also. In that sense, dance first, think later. I think this is also applicable to butoh. Works of art, no matter the form, should be like small breaths in the silence of the universe.

Samuel Beckett directed his work not through the words, but through the silences, the sense of space in between lines and actions, the nothingness in between. That, to me at least, is a clear link with butoh. His work, as his life also, was drenched in a lot of music, he was influenced by music in great deal, and although I think our preferences in music are mostly different with some exceptions like Debussy, I also sometimes think with some wry humor how he would probably dislike my music very much, and how, if I ever had a chance to play to him, I would very much try to impress him desperately, overdo everything to the point of exhaustion, and be forever damned in his eyes, but luckily I will never have that chance to ruin, and he will never have to endure my desperation.

Beckett also had a strong aversion to actors overacting and over reading into his intentions and implications. I very much share this feeling, both in butoh and in art in general. I think more than being influence of Beckett, it is what drove me to him in the first place. His work is often like heard from within a dream, unclear, fragmented, the actor seems to be more inside a dream than stage set. I think good butoh dancer also does the same thing. The reality becomes a dream, the mundane things become poetry, no matter what the environment and situation is, a good butoh dancer can make everybody erase the surroundings in their minds and drift into the same dream with them. Beckett directed his work with "no color". He did not want the actors to act, to recite, to try to show everybody their depth or greatness as actors; he wanted them to be the colorless element within it, the empty body if one wishes to borrow the butoh terminology, through which this voice or consciousness is coming through.

To me in butoh, but also in other visual art, this very often comes down to the problem of the face.

 

My work

Many people often ask me why I erase the faces. The second question is why there are flowers where there is supposed to be a face. I will answer only this one aspect of the first question. Human beings are built in a way that we seek easy answers in the facial expressions. In that sense, in butoh and in art, people are trying to read the face as a sort of notation of "How should I feel while looking at this work". There are many artists who are more than happy to provide those easy answers to the viewer. There are many butoh dancers, whose facial expressions are always telling the audience in huge gestures, what emotion are we having now. This, to me, sometimes gets close to the laugh track of American sitcoms. Telling the audience where to laugh, where to sympathize with the character, telling them how to feel in every moment so there is no room for their own interpretations, emotions or imaginations. This is why I don't like actors and acting so much, when they are without subtlety of their expression. I do not like butoh dancers who act. And face is very much a place of acting. The empty space beyond the edge of each fingertip is the place of true expression and power. When there is no face providing easy answers, the viewer is forced and able to focus on the expression of the full body. I like dancers who can exist with full force (this does not mean intense movement, but intense existence, and I shall return to this a bit further on) of their being, for the given duration, within the space that we create together in our work. I want to erase face, because people always try to look for the face for the meaning, explanation, emotion. I do not want to give it to them. I like dancers who truly become empty, because within that nobodyness, they can be anybody, and therefore, anybody can fill their nothingness with their own self. Of course, many times expressions arise and disappear during butoh. That is not what I am talking about, that is something that happens then and there, purely. This is about dancers who constantly over act with their face, no matter what the situation is.

Butoh is not pantomime. It is not theater. It is not really dancing either. In that sense, I think it closens to what Beckett was doing within theater. Butoh is to dance, what Beckett is to theater. It may happen in the same context (as in stage arts or dance), but it is more about the presence and existence, than it is about dancing or theater. A Beckett play is floating, sustained within the emptiness of it's own reality. It is a dream through which the audience dirfts together. Butoh is, at it's best at least, the same kind of a dream. They exist within the same reality more closely than with other things in their respected "genres".

 



As Beckett's characters were also often aging, older or at the end of their life, I want to touch one subject here that in my mind deals with butoh, but can also be extended all kinds of arts I think. That is the question of getting older. There are many examples of artists, especially those who are known in their youth for their transgression, who try to maintain their constitution to the old age, who want to be seen as transgressive or aggressive spirits. I think this is a way through which there is only very little to gain, and much to lose. There will always be someone younger and more energetic, somebody who can jump higher or be wilder. If you compete, you will lose always. Whereas if you withdraw from any competition, and focus on your own craft, you can only win. In a way, when one focuses on their own path, they are out of anyone else's league, because they become incomparable. A tree that tries to be strong and resist will break. A tree that bends and is resilient, will overcome the storm. When a butoh dancer, instead of trying to impress the young people with their loudness manages to embrace their silence, I think the result will often be astonishing. Beckett also understood this silence, and eventhough getting older and losing your vitality, entering the slow decay before eternal death is definitely not a fun thought for anyone, it is a natural part of our existence, in which we can also either find beauty or try to escape and deny it is existence. Time will tell if my words will come back to bite me when the time comes for me. Nevertheless, it seems to me that for artists, and everyone to be honest, there are two ways, one of curiosity and kindness, another of resistence and disappointment. Either way, the end is the same. But the path one goes through is very different experience.


What I really respect and appreciate about Samuel Beckett was his honesty towards himself and his work. He was a knife that kept cutting off all things unnecessary, he kept rewriting his own work when he thought he could get it closer to the his truth, which of course changes over time. In that sense he was much like his own characters, who might change direction midway, or abandoned their stories altogether in order to find something more honest. But despite being described as one of the bleakest voices of the last century, by his peers he was also very often described as the kindest man in the world. And to me, Samuel Beckett's greatness lives in that depth of his spirit, that you can see the world for what it is and still have your kindness and love for people. That is what drives us on in this bleak existence, the fact that we are born here, alone, but all together alone, hanging on to each other in the storm. We come and go in different eras, passing each other by. I came into this life while Beckett was going out of it. I think that is part of my fascination with him. As I stood on his grave on a cool May morning in 2019, listening to the cleaners behind me argue about weather, I felt like some invisible tight rope would have gone from my stomach all the way to the bottom of the grave. I can not fully explain why I feel so strongly about his work. And I do not care. Probably we are made out of same things. Failures, wounds and uneasiness of our inability to communicate with our fellow mortals, mixed with the gratitude towards the individuals who bear with us in spite of knowing what we are.


I think in many ways he is the missing link with especially Japanese and Western art, a bridge through which people could perhaps understand one another in a new way, and as I have explained, I see there are many links to butoh which might make it interesting to read for those who have the interest in similar kind of world that I inhabit. It is inspiring, tiring, exhausting at times, but at best like music that I keep returning to again and again, probably for the rest of my life.


Beckett's notebook

2025/09/05

肉体と錆の詩 // The Poetry of Flesh and Rust

**English version follows the Japanese one** 

舞踏とインダストリアルの音・肉体と錆の詩

 

この中で書く思想と概念って、確かに何か新しい発見ではないし、舞踏とインダストリアルミュージックの組み合わせも僕の発見ではないし、土方巽さんも自分の公演で実験的な音使ったり、白虎社も僕が生まれた前にもうEinsturzende Neubauten の映像の中で出て来たのですが、自分は舞踏に関わる音楽家としてに、自分もたまに舞踏してる人としてにちょっと謎に独特な視点からこのアンダーグラウンドの世界を観てると思います。
僕はアカデミックではないし、そういう興味もありません。
このテキストはよくある質問とかは答えてみてるし、個人的な舞踏と音の考え方の解説があり、もしかしたら興味ある人は
20人位だろうかなと思っています。


土方巽  疱瘡譚

初めて舞踏を発見した事って、多分多めの方と同じ様に、短くて低品質のモノクロの土方巽さんもの1972年の 疱瘡譚という作品の映像でした。
その映像の中でボロボロの泥の幻のようにほぼ粉粉になっている、遅く動いてる、観客から離れ引き込んでみるような土方さんが見えますね。
そのイメージがインパクトは凄く強かったけれども、それと同じぐらい大事さはその見てたメディアの低品質のフィルムもあったと思いますが、それについてあとでもっと書こうと思います。

心の中で残った事って、その消えてゆく、潰れてゆく、人間っぽくさがない肉体とか、白塗りした身体の背景の真っ黒の空虚に対してのコントラストとか、、、舞踏はよく暗黒舞踏って言われてますが、西洋の人達はよくこれをかっこつけの二元論的な事としてには勘違います。
陰陽とか、善悪とか。
それより、その暗黒っていうことって光の不在ということだと思いますね。物理的な暗黒とか、ちゃんと見えない事とか、闇の中に消える事とか。
舞踏って、どちらも物理的な意味でも、形而上学的な意味でも、消滅の芸術だと思います。見たことある公演の中で、ほぼシルエットの様に闇の中で、後ろから写った弱い照明に対してにやったこともあります。
そんな環境で存在のフィジカルさとか、間の感じがすごくハッキリ感じれると思いますね。


明夜
いつも必要なことじゃないと思いますが、舞踏公演のコンテクストで、よく自分の責任が分かってる照明家さんはその公演をまた新しいレベルで上がれられますね。
その事って、全部見せるより、闇から光で身体を彫るみたいな芸術ですね。
そんなパフォーマンスをいっぱい見れて、そんな人たちともコラボレーションが出来てラッキーだと思います。
その闇はまた現実の低忠実度さを倍にして、人の想像力が勝手にその見えないことを描いていますね。
たまに観てる時は突然ふっと目が覚めたように「僕は今何を見せてもらうのか、この目の前に開いてくる事って何ですか」って思ったことがあります。
こんな雰囲気を作るために、自分自身は夕暮れの時、薄暗いの時に自然の中で、都会の人間の中でも出演するのが好きです。
舞踏に慣れてない人の中で出演すると、その夢のような雰囲気はまた強くなると思います。
北海道で活躍してる明夜さんとやる黙雷というコラボレーションユニットでこれもやったことがあります。
ある人にはそれは確かに怖いですけれども、幽霊のような舞踏家は当たり前としてに思ってる都会の風景の中でその覚めと夢とか、現実と無現実とか、生と死とかの間の限界を消せられてますね。
僕にとっては自分のすべての芸術は大体その目標でやると思いますね。



その以上は、このコンテクストで間の感じもすごく面白くなり、動きの間の為に。
うるさい社会は忙しくて、急いでるのに、その中では舞踏家がほとんど何もやらず、ただいるだけ、空間に存在することだけで充分強い体験になると思います。
そんなところでやる時は、反応はよく舞踏に結構慣れてきた人たちより面白いことが起きると思います。
インダストリアルな音のこともそうじゃないでしょうか。
慣れた人たち大体見てることをほかの見たことあるアーティストに比べてるけれども、慣れてない人たちがもっと純粋に感情的にそれを感じられて、その反応を見るの方が面白いだと思います。


その見たことあった映像の中で、土方さんはほぼ腐食されてるようだし、アイデンティティが失ったような人間のような動きに見えます。
自身を失った人間のように、存在の泥の中に迷った人間のように見えます。
土方さんは秋田出身で、よく子供時代の田舎の生活の記憶を自分の舞踏を形にしたような体験としてに思い出されました。

僕自身も田舎の子ですので、世界の反対側の田舎だったけれど、土方さんは言われたことが良く理解できると思います。

一つの舞踏の大切な点って、ルーラルとインダストリアルな世界の交わるポイント、現代時代と古時代のプリミティブな感覚は一つになって、時間の感覚がなくなります。

 

この映像を初めて拝見した時はいつだったっけのを覚えられないんですが、何年間もそれが潜在意識で残り続いて、確かにそこからずっと自分の美意識もその影響をいっぱい吸いました。
ずっとそのままで何処かで残って、やっと
2018年はフィンランドのテレビが作られた日本の音楽シーンのドキュメンタリーで園田游さんのインタビューが出て来ました。

その時はまだ、いつか一生中で日本に引っ越したり、日本語も習えるようになったり、この同じ園田游さんともご一緒に出演したりするようになるのを想像も出ませんでした。
然し、園田さんの踊りと言葉を見ると、自分の中でまた何か火花が一瞬で散って、なんか形に戻って、これだ!って悟りました。

ずっと自分の心の奥でこれがあって、今はやっとそれの時期がなりました。
その影響は強くて、特に僕の
Flesh Holeという詩の朗読とインダストリアルな音のアルバムにインスピレーションいっぱいもらいました。
最初はそのアルバムの概念は自分で舞踏公演したら、何の音に舞踏したいのかっという感じで作って、自分の身体の音探し、そうして自分の体をも音源としてに使いました。
後でそのアルバムの目標はちょっと変わって、
Dada BonesLost Mindというアルバムとともにスポークンワード トリロジーになりました。

 

園田游、YLEの番組

このコンテクストで自分の音楽の事ってインダストリアルな音としてに書いてますが、これは主に何かコンテクストをあげるようにして、よくつけてあるタグをするようにしていますけれども、自分音は完全に「インダストリアル」でも思わないと思います。
インダストリアルが好きな人も同感だと思いますね。
僕の音楽の中でよく普通とか民族楽器もあるし、ギターなど、尺八など、サックスなど、何でも作りたい雰囲気似合ってると思ってる楽器か機材があれば、使いますね。
それでも、大分の楽器が大体鉄の破片とか、石と陶芸とか、竹とか、自作のばねとワイヤーついてるジャンク楽器があります。
見た目にも空港に入る時はいつも早く困ってるようなものだけれど、まだ今までには奇跡みたいに困らせたことがないので有り難いです。

 

それでも、インダストリアルミュージックというコンテクストの中では多分一番身近な感じがあります。
特に大阪のアンダーグラウンド過ごしていただいた時間の為に、今からの将来にもその狭いコンテクストの中で一番心地よくて人生が過ごせると思います。


 自分の音楽についての考え方は、錆の詩というように考えてます。
音楽的な概念としてに思わないし、それより材料の音と言葉の詩的な物としてに想っています。
風景とか、映像とか、瞬間、記憶、夢、ゆっくり消え去ってゆく、その土方さんとの同じようなボロボロの泥の幻達など、枯れてゆく花など、、その意味で、僕には一番面白くて、酷いことは時の流れだと思います。
音の中でも、舞踏の中でも、時間が我々のとうしてに出演の間に流れていって、一緒にその同じ空間と時間をシェアしてますね。
このためにも、一人で出演するより誰か舞踏家と一緒にしたいと思います。
一人で出演すると、観客がそれを「音楽」としてに体験したら、何となくしっくり来ないって感じます。
中々音楽としてに考えられません。

僕のことを音楽に言ったら、それはちゃんとの音楽家に対してに悪いと思います。
彼らが一生懸命働いて、イ音楽を作るために一生懸命頑張ってますね。
僕はただステージ入って、自分のままでその出演の期間で存在してるだけ。
その意味でも、誰か舞踏家が一緒にやってくれたら、その体験される方は音楽より精神的な空間作品になると思います。
皆で一緒に観てる夢のようなものだと思います。

もっと関係ないポイントで、自分のプロジェクト名のJunkyard Shamanも時間の考え方的に好きだし、1000年後の崩れた世界のジャンクヤードと、1000年前の大昔のシャーマンというものを一緒にして、その2000年の期間の何処かで僕が存在して、自分の作品を作ったようですね。

僕の作品の中で、終わりはいつも一番大事な部分だと思います。
始まったことのすべてが必ず終わるだろう。
すべての終わりの破滅の中でも、また新たな再生がある、何も無い灰の畑の中よりまた柔らかい茎が出てくるようですね。

一つの大事な思想って、決して必要より多いしないべき。
それはおそらく元々の舞踏の影響だと思います。
もし存在が、気配が通分強かったら、余計に空間をいらないものに溺れさせなくてもいいです。
たまに成功できるし、普段に失敗します。
特に久しぶりに出演するときか、カレンダーでゃ一つの出演しか入らない時は、自分のすべてのことを針の穴から押してみるような気がします。

ほぼ決して練習しません。
実は、練習は全く好きじゃないです。
もっと良くなりたいわけではないし、自分のやることもっとよく知りたい訳でもないし、逆にもっとなくしたいし、失いたいし、知らない事とか、理解できないこともっと見つかりたいです。
この意味で、全体的に自分の作品の一番大きな影響はサムエルベケットだろうかもしれません。
ベケットは西洋文化の中で恐らく最も舞踏の響きがあり、彼の作品の中で中々何も起こらないし、全部繰り返してるし、ずっともっと消せられて、悪くなるし、腐食されていって、消えてゆく。


規律か、献身の方があってる言葉だと思います。
この自分の作品に自分の人生のすべてを献身して、やるときはその献身を仕えるという感じがします。
いつも同じ様に繰り返しても、結果はいつも違うだろう。
格好つけるように聞こえますかもしれないけど、大切なことだと思います。
日常なことでも、芸術のことでも、何か自分より大事な、大きな事を仕えた方がいいだと思います。
僕にとってはそれこの自分の芸術の道です。


それから、僕による舞踏とは何?よく質問したことがあります。
確かに、皆は違う答えがあるだろうけれど、僕によって舞踏って肉体の詩ですね。
肉とか、骨のままで、心がないような空の身体。
考えないままで、あるほかのダンスの中である「いっぱい体を鍛えたからこんなこともできるんやん!」と言ってるエゴイストなことがしてない芸術。

ある意味で、舞踏は僕の音と同じように受け取るより減らすことに集中してると思います。
自分の中である真実の律動と流れを探し、余計なこと全部切ってみるようなことだと思います。
体がみなそれぞれの詩的さがあるし、自分に自然に合ってると合わない動きがあるし、できることと出来ない事もあるし、皆の肉体は自分の中に重ねてきた人生の集まりだと思います。
その自分を皆は毎日また日常な選択の中で選びますね。
すべての体験とか、過ごした人生の時間が影響あると思います。
その意味で、舞踏家の人生は舞踏の身体をその詩を作ってくれると思います。
皆は自分のことしか踊れません。
本来の自己の自然。
僕にとっては、その詩は舞踏です。

その為に、色々なワークショップで習ったきれいにできる方を見せる人より純粋に自分の舞踏をやってる人にしか興味ないと思います。
方は最初に大事なことかもしれないし、集中力が落ちたら、迷いがあれば役に立つと思いますが、自分と関わった舞踏家達の素晴らしいことって、自分自身の中で何か表現しないといけないことがあります。
これも、恐らくすべての芸術に同じ様にあたると思いますが、舞踏は骨と皮膚のままでやりますので、他の芸術よりすぐにバレると思います。

現代世界で、特にニューエイジサークルで舞踏はよくトラウマの直す道具としてに思われるようです。
僕はある程度ちょっとこんな考え方の反対です。
確かに、舞踏がヒーリングみたいなことにもなれることもあり、自分が動いたら自分の体と心がちょっと仲良くできるようになれば当たり前だと思いますが (元々から何も分立がなかったと思うけれども)舞踏の意味は誰かの傷を治す道具しかなかったら、それは舞踏にも、自分自身にも良くないと思います。
それより簡単な、合ってることもあると思いますね。
又は、人間は何か自分のエゴより大切なことが見つければもっといいことになれると思います。
舞踏とか、何でもやることに献身出来れば、人生に意味が見つけれるし、舞踏も結果的にはもっとよくなれます。
この献身の思想って、世間は大体失ったのに、特にはインダストリアル音楽とか、舞踏とか、色々なサブジャンルの中でまだ強く生きてると思います。
得ることが無いのに、やり続けることが大事なスキルだと思います。
献身でそんな事が習えます。

 

金亀伊織、写真は秋久秀雄。

舞踏とノイズの交わるポイントを考えようっとしたら、一人のよくコラボレーションしてるる舞踏家をメンションしたいです。
大阪で活躍してる金亀伊織さんと関西で様々なノイズのイベントでよく一緒に出演したことがあります。
彼の身体の中で感じる激しさがノイズにすごく自然に合ってるし、音と体の粗い感じを一緒にするときは見てくれたお客様達も確かに、それが強く感じられると思います。
もちろんそれは金亀さんが出来る事の中で一つの事しかないし、他のようなイベントも一緒にやったことがありますけれども、最初からなんとなく彼の舞踏は確かにもっと激しい音にも合うと思いました。
身体の中でいっぱい出口を探してるノイズがあるように見えました。

身体達、人間は皆はそれぞれ流れ、それぞれの存在があります。
それを見せ彫るのは音のわけです。
舞踏家の皆と出演する時は、皆はそれぞれ違うって感じますね。
同じ楽器を使ってるのに、同じ設定でするのに、違う人に結果はいつも違うだろう。
もちろん、すべての舞踏家はそんなに激しくて感じてる音は必要じゃないと思います。
確かに僕の音と哲学とやり方が全くいらない舞踏家は何千万人もいます。
僕の興味ある事は確かに狭くて、渋いだと思います。
私はそんな人だから、同じ様な人も凄く好きだし、深くて尊敬するようになりました。
その中で一人のすごく尊敬してる作家は多門伸さんです。
多門さんと一緒に大阪でも色々な大切に、光栄としてに想ってる思い出がいっぱいですけれど、2024年の北海道舞踏フェスティバルのミステリーツアーで一緒に音を出演した時の記憶も凄く大切な体験になりました。
多門さんはインダストリアル音楽の作家としてに技術でも僕より何倍も超えるし、彼のビジョンとスキルも尊敬してます。
彼のソロ作品も、Weiches Loch というメタルパーカッションの自作楽器を使ってるグループも素晴らしいだと思いますので、皆さん是非チェックしてほしいです。
正直言えば、僕も元メンバーですけれども、自分が抜いた後の形になったWeiches Loch の方がすごくなってきたと思います。
彼らの音もすごくよく舞踏に合いそうと思います。
こんな人たちと活躍する時は、自分はいつもなるべく純粋に彼らの世界観とか、ビジョンとか、やりたいことが見えたいですね。
そんな風に、面白い人たちの自分のままで凄い出すことがいっぱい一緒にすると、結果は最も素晴らしいことになれると思います。

Weiches Loch

舞踏に音を作るのは結構独特な事ですね。
光が身体を闇の中より彫る様に、音も精神を静粛の中より彫ると思います。
このためにも、何も余計な事をやらず音を作るのは大事だと思います。
それより、自然にいろいろなことが現れれる空間を作るべきです。

恐らく、ある音楽家達は有名な舞踏家か、もう人気出た舞踏家と出演したい人が多いですが、僕は体験がそんなにない人達か、素人とも出演するのが好きです。
体験があるかどうかより、精神的にその人が合ってるかどうかのほうが大事な事だと思います。
体験が多くない人達とやるときは両方にもっと発見ができることとか、何か探せるような冒険感がたまにあると思います。
それから、自分自身も最初のときは色々なこと習った方法って、自分より体験がある人達といっぱい活動したら、彼らのやり方とか、体質を学んでたから、そんな体験も自分ができたから感謝しながら他の人に与えたいと思います。
そんなことで早く習いたいことが習えるからと思います。
体験がない人達とやるときは、安定に、音のインターフェイスみたいな信頼できる空間を作ってみます。

白濟豪、写真は
 前に書いた様に、自分には一番面白い事は主に時の流れです。
15分から90分位がかかる公演のコンテクストでだけじゃなくて、人間の生涯の中でも。
舞踏で、舞踏家自身の身体のとうしてに流れてる時間が見えます。
ある人達は多分若くて、柔らかくて、動きが激しくて、エネルギーがいっぱいあり、色々な形になれる舞踏家を見るのが好きかもしれませんが、そんな舞踏家はよく重さとか、我慢とか、静粛か間が分からないと思います。
そんな人を見た時はよく「一旦人生がこの人もちょっと遅くさせたら素晴らしくなれるなー」と考えた事があります。もちろん、若者の中でも素晴らしい舞踏家があり、その中で一人のは台湾の白濟豪 です。
白さんの存在感とか、余計な動きの我慢とか、時間の間の感覚はすごくいいだと思います。
然し、お年寄り舞踏家達がよくただの存在感とか、気配とかでも充分感動させることができます。

 

 

きっと、これはまた肉体の詩の事に戻りますね。
皆はそれぞれです。
体の動きの自然な流れと律動、性格、すべてのことが影響あります。
ある人がもっと動物の様に、ある人の気配が植物のように、花のように、石のように動かず、ただいるようにも感じます。
僕の音楽にも似てることって、舞踏も普段に楽譜としてに伝統的な振り付けより言葉と詩を使われています。
たまには、すべてのことが理解したいって思ってる人にこんなことが中々説明しにくいだし、それは考えず想像させる映像のようだからです。
その為には、詩とか、抽象的な事がよくわかる人はよく身体をいっぱい鍛えた人よりいい舞踏家になれると思いますね。
ただ身体が動いてるのに、ただ身体のことではないです。
それより、精神のことです。
コンテンポラリーダンスと舞踏の別れと競争がよく聞いたことありますね。
僕の視点から見たら、コンテンポラリーダンスで身体が空間で踊る。
舞踏の中で、身体が空間に引っ張られてる。
その為は音作人が、身体を引っ張ってる空間の風景を彫る。
公演か踊るのために作った音ではありません。
それより、舞踏家が自由に消えるようになれるためにある、不存在出来る儀式のようなものです。
舞踏を踊りの概念でに考えたら、道が迷いますます。
音も音楽の概念で考えたら、道が迷います。
踊りと音楽ではありません。
どちらも、そんな風に考えられます、宇宙のすべての音も律動と音階があり、すべての空間で起きる動きは踊りのようにも考えられますが、その同じ現実に存在ないようなものです。

この為にも、特に抽象的な音楽は、インダストリアルか、ノイズか、何の名前を付けたいかどうか皆さんそれぞれ自由に選んでください、舞踏のコンテクストにぴったしあってると思います。
個人的に一つの重要なレファレンスポイントになれることは確かに高品質より低品質の使い方。
例えば、出演の映像を撮る時とか、音の事でもそれは特にそうだと思います。
もしかして雰囲気の目標は身体と精神の崩壊とか、自身の崩れとか、意識と記憶の錆びることと腐食などならば、使ってる方法も舞踏家と同じ言語を話さないとと思います。
たまに見たことあるパフォーマンスの時は、舞踏家がやったことに一切集中ができなくて、音の世界が全く違った世界で存在した様だったからです。
撮影するときも、今の世界ですべてのことはウルトラ
HDで、何kでやっても、その昔のグレーンとノイズがいっぱい入ってる70年代か80年代のフィルムで撮った奴を越えた映像はまだ見たことがありません。
昔の舞踏家皆素晴らしかったからというわけだけじゃなくて、現代時代の舞踏家達も素晴らしい舞踏家がいっぱいいます。
それより、現代でドキュメンテーションのする方とか、保存する方が変わったというわけです。
世界のすべてをずっと見なくてもいいだと思います。
夜は暗いべきです。
見えない部分とかもあれば、人間の想像力が勝手にそのギャップを描きます。
ウルトラHDの時代で幽霊が存在できる余裕がないです。
このためには、自分の音楽にもカセットテープが一番合ってるフォーマットがあると思います。
時間でだんだん悪くなるし、遂に音の海のようなものにとけてゆくからです。自分にとっては、それは人間の意識を伝えてる完璧なイメージだと思います。
言葉で説明できない、舞踏と僕の音楽が目指してる世界。
あの世。


低忠実度さとかテープディケーなどは舞踏にあってる雰囲気を早く作られてますが、勿論生音とか、環境音とか、アコースティック楽器、何でも身体、自分の手で作れるものもいいです。
目標は踊りに作るリズムではなく、身体に作るリズムです。
一つの要素は心臓の叩き、また一つ要素は呼吸のリズムとか、メタボリズムとか、血流とか、そんな風で音の身体を作ります。
自分は鉄の異様な音楽的さも大好きです。
ばねとか、ワイヤーとか、プレートか割れたシンバルとか、、僕にはそれがフィンランドの田舎で初めて出会った音楽ですね、いつか音楽を作れるようになるのを分かった前からの体験、大きな農場鉄ドアの叫び音など、コンクリートミルを叩いた時の響きなど、何でも音出せた物で遊んでました。
去年は友達の畑で稲刈りたときはやっぱりこんな同じ様に繰り返してる単純な田舎の仕事は自分の自然なリズム感とかにいっぱい影響されたのを悟りました。
確かに、僕と同じように成長して来た日本人ともフィンランド人、多分ある世代までに世界のどこにも育てきた人にそれが一緒だと思いますが、その全部はもうかなり昔の世界になりましたと思います。
そうして、こんな微妙な、見た目にはなかなか関係ない事は多分僕の音楽のやり方とか、考え方を舞踏にも合わせるようにされました。
人生は失敗と間違いと偶然の重ねて来ることとしてに想っています。
何となく、僕はこの狭くて、深い舞踏の限界文化の世界で自分には心地いい場所が見つけて、その中で見つけれた体験とか、親友とか、コラボレーションとか面白いアイデアとか、すべてのことで心の一杯で感謝して、この自分の道にこれからの人生をも献身するつもりです。 テキストに合わせてこれも作った。ダウンロードでPDFもあります。 https://junkyardshaman.bandcamp.com/album/the-poetry-of-flesh-and-rust

 

黙雷、写真は張青





Butoh and Industrial Sound - The Poetry of Flesh and Rust


I do not claim to have invented these thoughts or concepts, or even the combination of butoh and industrial music, as it is easily proven that Tatsumi Hijikata used to have experimental sound in his performances, and Byakko Sha was performing in the Einstürzende Neubauten video even before I was born, but I acknowledge that as a musician for butoh, and sometimes doing butoh myself also,I am working on a very specific field inside two very very niché fields of butoh and experimental sound. I am not an academic, and don't aim to be. This text is solely for those interested in the subject and my view of butoh and sound, which I figure might be around 20 people at best.

Tatsumi Hijikata in Hosotan

 
My first encounter with butoh has been the same as many people I think, in form of a short, low quality black and white clip of Tatsumi Hijikata's 疱瘡譚, Hosotan from 1972. In the video one can see Hijikata, looking like a muddy ghost, falling apart, body moving slowly and as if withdrawing from viewer. As impactful as the imagery itself, is the media, the low fidelity film recording, but I come to that later. What stuck with me is the imagery of disappearing, disintegrating, a body without humanity, the high contrasts of white painted body against the utter darkness of the background... Butoh is often called the dance of darkness, and in western world this is very often misinterpreted into some cool dualistic view of light vs darkness, good vs evil, but that darkness implies merely the physical darkness, the state of being unlit, left underexposed, unseen. Disappearing into the darkness. Butoh is very much the art of disappearance, in both physical sense and metaphysical sense. Some of the best performances I have seen have been merely silhouettes in the darkness, against the faint lighting somewhere else. In that kind of environment you understand the physicality of presence and ma, the sense of space.



Akiyo, photo Sakaki Asano
It is not completely necessary, but in the context of performance, a good lighting techinician can also elevate it to another level, if they understand that they should be sculpting the body out of darkness. Luckily I have had the chance to witness many such performances and collaborate with such people also. The darkness adds up to the "low fidelity of reality", in which the human consciousness fills in the gaps and sometimes even when you are watching, you sometimes kind of wake up to the thought "what is this that is unfolding in front of me now?". For this kind of experience I very much prefer performing at the dusk, outside, in the streets or among people who are not exposed to butoh before, because that adds to the dreamlike quality of the whole experience. We have done this with the Hokkaido based butoh dancer Akiyo, with our collaboration called Mokurai. To some it might be scary because a ghostlike butoh-dancer in the middle of what is considered "normal" blends the line between dream and awake, the real and unreal, life and death, and that is exactly what I aim to do with my work in general. Also in this context the ma becomes more interesting, in the sense of movement. Whereas the other world is noisy and rushing, the butoh-dancer can merely be, just exist in space, and it is a strong experience in its own right. Many times the response has been better or more interesting than in a place where everyone knows and expects butoh. The same also goes for the industrial sound or noise music.
 Many times when people expect it, they compare it to another bands or artists they have seen, but people who do not have prefixed ideas feel it on a more emotional level and that, to me at least, is more interesting approach to anything.


Yu Sonoda, in a YLE documentary. 
In that video, Hijikata appears to be in state of disintegration, the movement is like that of someone who has lost the identity, self, into some pure mud of existence. He used to recall his experience of being stuck in the mud as a child, among many other rural youth experiences, as being one of the most definitive butoh experiences he had had. As a someone with a very similar rural youth, albeit on the other side of the world, I understand many of his recounts very innately. I think one of the important counterpoints of butoh is the cutting point of rural and industrial worlds, the modern and the primitive coming together and becoming timeless in that sense. I can not remember when I first encountered this material, but it stuck with me for many many years and probably influenced my sense of aesthetics from that point on. It stayed somewhere in the back of my mind, until in 2018 there was a Finnish music documentary that featured an interview with Yu Sonoda. At this point I was still completely unaware that I would ever move to Japan, learn any Japanese in my lifetime, or that I would ever perform with the very same Yu Sonoda in the future, but his dance and his thoughts resparked and inspired me, hurled me back to the thought, that this was something that had been in the back of my mind all along. That was huge influence especially on my spoken word album Flesh Hole, on which the driving idea behind the music was at first, that if I was to make music for my own butoh performance, this is what I would want it to sound like. I was searching the sound of my body, also using my body as a sound source for it. Eventually the work was somewhat repurposed, and went on to be the trilogy of spoken word albums with Dada Bones and Lost Mind.


In this context I have spoken of my music as "industrial sound", but that is merely to give it some context, and trying to put it in a box it is often seem, although I do not think it is purely industrial, and probably many puritanists of the genre also agree. I also use many normal or traditional instruments, shakuhachi, guitars, saxophone etc, whatever I think is needed to convey the meaning and fit the purpose of what I am doing at any given time. Most of my instruments still are pieces of scrap metal, ceramics, stones, bamboo, and self-built instruments with springs and wires attached to it, stuff that makes me a bit nervous at the airports every time, but miraculously enough have given me no trouble yet.

Nevertheless industrial music is probably at least mentally the sort of context I feel most closeness to, especially with the Osaka experimental music scene which was my home for so long, and hopefully will be in the future also after I get my life sorted out.

My approach to music is very much that of poetry of rust. I do not think in terms of musicality, but of material poetry of sound and words. Images, landscapes, moments, memories and dreams slowly fading away, those same muddy ghosts and withering flowers decaying away.. In that sense what interests and horrifies me the most is time. Both in sound and in butoh, the the time is flowing through us as we exist in the same space for the duration of the performance. This is a big reason for why I prefer performing with butoh artists than alone. If I play alone in a live event, it feels like people are taking it in as "music" and for some reason that appears to bother me, as I don't think it is really music. I think calling it as such is an insult to musicians who work hard for their music. To me it is more merely getting there and existing in space for a certain amount of time. In this sense, butoh dancer also extends the work from "music" into creating a mental space, a dream which we all see unfold together, as I prefer to reference it.

In a more irrelevant sense, I also like the project name Junkyard Shaman as it combines our post apocalyptic industrial junkyards from 1000 years in the future to something that stands as an image of tradition from 1000 years in the past. Somewhere within this 2000 year span, I existed and made my work.

In my work, the end has always been the most important thing. The end is that which imminently follows every beginning. And in every end there is the destruction that begins the new cycle of rebirth, the empty field of ash from which the new seedlings will grow out.


One driving thought is never to do any more than is necessary. That is probably very much the original influence of butoh in my work. If the existence, sense of being is strong enough, one does not need to fill the space with anything meaningless and unnecessary. Sometimes I succeed, usually I fail at this. Especially if I have not played in a long time or there is only one performance in the calendar, it quickly becomes the sort of situation where you try to squeeze yourself through one small needlehole and do everything at once.

I never practice. In fact, I hate practicing. My aim is not to become better or more accustomed to what I do. My aim is to lose skill, find more uncertainty and things I do not understand. In this sense the biggest influence of my work might be the body of work of Samuel Beckett, which I see the closest western counterpart for butoh in many ways. In his works, things often drag on, repeat, get worse and worse, disintegrate and get lost.

A better word is discipline. My work is my discipline to which I have devoted all of my existence, and every time I do it, it is in servitude to my discipline. It keeps repeating the same, and yet it always becomes different. It may sound stupid or pretentious, but I think it is somewhat important approach to life; one should have something that is bigger and more important than yourself, something that one can serve, and to me, it is this path of my art.


Then what is butoh? I have been asked many times. Probably everybody has a different answer to the question, but to me, it is the poetry of the body. Of flesh and bones, an empty body without a mind. No thinking or feeding your ego with "look what I can do with all the practice I have had" as in some other forms of dancing or stage art. In some sense, I think butoh shares my thinking of losing instead of gaining, finding something within oneself that is fundamentally essential to being you and cutting out everything that is unnecessary. Every body has their own poetry, the sense of natural movement, the disabilities and abilities that life has brought you, you are an accumulation of your life, the time the body has spent on earth, all the experiences and personal life choices shape the body of the butoh dancer. In a way, the butoh creates the body for butoh. Every body is dancing out itself, the true nature of itself. And to me, that is the poetry of butoh. I am only interested in the individuals from whom I see, that more than showing all the kata they have learned from some workshops they have participated in, they are doing something that is essential and true to THEM. The kata might be important in getting you started, or to have some confidence to fall back on when you momentarily lose concentration, but with the many butoh dancers I have worked with the connecting quality is that they have something within them that they are expressing. This, of course can be extended to any form of art if wanted, but I think the bare boned nature of butoh makes it far more apparent than many other forms of art.

In current world there is a kind of trend to see butoh as some sort of extended trauma-healing work, especially in the new age circles, but in a way I am a little bit in opposition of this. It may be healing experience to become more connected with your body (for you are nothing beside it anyway to begin with), but if the main purpose of butoh is to serve as one's ladder to their own mental well-being, I think there are better ways to do that. Again, I think one should find things that are bigger than themselves and worth devotion; if one serves the butoh and not the other way around, it will result in much better butoh. I think it is the idea of dedication or devotion that is lost in many factions of life, but still lives strong in subcultures like experimental music, where there is pretty much nothing to gain, but people keep on doing it nevertheless.

 

Iori Kinki, photo by Hideo Akihisa

When thinking of the connection between noise and industrial music and butoh, one frequent collaborator I want to pick up is Iori Kinki, Osaka based butoh dancer with whom I have played many noise events in Osaka. In his body there is the sort of intensity that I find very fitting for harsher approach to sound, and I think people who have witnessed these performances can only agree that they are somehow strong experiences. Of course that is not only thing he can do, but somehow right from the beginning I felt like the intensity of his butoh fits really well in this sort of context also. It felt like his body is full of noise looking to get out.

Every body, every person has different kind of flow and rhythm, different existence. The purpose of the sound is to sculpt it out. With every single person, it feels different to play, although instruments would be exactly the same, the set up can be the same, and for every person the outcome will be different. And of course, not everybody need to have so intense approach to the sound, there are of course probably hundreds or thousands of people who can do completely fine without my kind of sound also. My area of interest is probably narrow, but deep. I am like that, and I have grown to respect many people who are built alike in that. One of those people is definitely Sin Tamon, with whom we had intense two days of making the sound for Hokkaido Butoh Festival's Mystery tour in 2024. He is an industrial music artist to much further extent than I am, and I have huge respect towards his creativity and skill. I highly recommend checking out his solo activities if you have a chance, and also the band Weiches Loch, which uses metal percussion instruments built by Tamon. To be transparent, I also used to be a member of the group in the past, but I also think it is much better without me. I think their sound is also very fitting for butoh, so I think it is relevant to mention.
When I collaborate with such artists, I try to create the environment where everybody can express their own inner self, worldview and thing they want to create as purely and unaltered as possible. It is my belief, that if we bring together artists who are uncompromisingly themselves, the result will be fantastic.

Weiches Loch


Making sound for butoh is a quite specific thing to do. As the light carves the body out of darkness, the sound sculpts the spirit out of silence. In this sense also it is important not to do anything unnecessary, but to create the space for things to unfold naturally.

I suspect some people would probably have the sort of approach where they cherry picked only experienced or famous butoh dancers to work with, but I also very much enjoy working with inexperienced dancers.More than whether they are experienced or not, I care about whether we match mentally or not. Playing with dancers with less experience often provides a chance of discovery and exploration for both of us. Also, I think the way I learned to play in the beginning was by playing with people who had much more experience than I did and learning while watching them work, so I think it is important to pay that kind of thing forward also. That is how you learn fast. In case of inexperienced dancers, I aim to provide an interface for existence, something they can rely on in their performance.

Chihao Bai, photo by Sakaki Asano
As mentioned before, my main interest is the flow of time. Not only in the context of a performance that lasts something from 15 to 90 minutes, but throughout human life. In butoh, one can witness the flow of time through a human body in the artist themself also. Some people's preference would probably be young butoh dancers, with intense movement, much raw energy and exploding expression, but I find myself often thinking they lack the weight, the patience, restraint and silence. I find myself thinking, they will become much better when life will first slow them down, eventually. There are of course some great exceptions with younger dancers also, for example Chihao Bai whose sense of presence and lack of anything unnecessary is just masterful, but often the more experienced butoh dancers have and immensely impressive sense of presence and sheer power of existence that is enough in itself. 

 

Of course, this again comes to the poetry of the body, different for each person. Natural rhythm and flow of their movement, personality, everything. Some people resemble plants or flowers. Some people have more animalistic energy, some people feel like stone, unmoved, still...butoh also resembles my music in that it uses poetry or words for notation more than some traditional idea of choreography. Sometimes these are hard to explain for people who want to "understand" and explain things, as they are more of mental imagery to be expressed without thinking. That is why I think, that often people who understand poetry and abstractions become much better butoh dancers than those who have trained their body and flexibility. Even though it is only your body, it is not about your body, but your spirit. There is very often heard the separation or competitive attitude between contemporary dance and butoh, but the way I see it is, that in contemporary dance the body is dancing in space. In butoh, the space is pulling the body. I sometimes half-jokingly say, that the difference is contemporary dancers train their body, butoh dancers train their mind.

The purpose of the musician is to sculpt the landscape that pulls the body. Not music for dancing or performance, but a ritual of nonexistence, not-being,. If you think butoh in terms of dance, you are on the wrong path. If you think sound in terms of music, you are on the wrong path. They are neither. They can be both, as in every imaginable sound in the universe can be analyzed coincidently through terms of pitch and pulse, and every body based movement can be interpreted in terms of dance, but the reality they exist in is separate from that.

And I think this is why abstract music, or noise or industrial, whatever you want to call it, works as a fitting framework for butoh. One element that I think is important as a personal preference is low fidelity instead of high fidelity. For example also in filming a performance, but especially in terms of sound. If the aim of the atmosphere is the collapse of body, collapse of mind, identity, decay and disintegration, rusting of personality and memory, the methods used need to speak the same language as the butoh dancer. I have seem some performances where I couldn't focus on anything the dancer was doing as the sound world appeared to be from a completely separate world with everything else. Also filming the performance, in this day and age when everything is ultra HD Idontevenknowwhat"k"arethegoingoninnow, I have still not seen any recorded performance that would have overcome the power of those grainy films from the 1970's and 1980's. The reason is not that the butoh was better, I think there are amazing butoh artists right now, I think it is more about how the ideas of documentation have changed in the current era. You don't need to see all of the world all the time. Night is supposed to be dark. Leave things unclear and have the imagination fill in the gaps. In the age of ultra HD, there is no room for ghosts. That is why I consider tape also absolutely the most fitting format for my music, as it wears down with time and eventually disintegrates and disappears into a mass of.. sound. To me that is a perfect depiction of a human consciousness. It is something beyond words, that both butoh and my music reach out for.

Low fidelity and tape decay will create the fitting atmosphere for butoh, rather quickly and efficiently. Of course live instrumentation, environmental sound, acoustic instruments and especially self-built electro-acoustic instruments work too, anything a body can do works also really well. I aim to create a rhythm not for dancing, but for a body. One element is there for the heavy beating of the heart, other for breaths, some sounds for metabolism, some for blood flow, etc. I also love the strange musicality of metal, of springs and wires, plates, broken cymbals.. They are to me the very first touch I had with music, before I knew how to make any of it, as a child in the countryside, scraping the huge metal doors of barns or sides of tractor carts, concrete mills, whatever there was that could make a sound. Last year, while harvesting rice I actually realized how much the simple field works and countryside life has affected my sense of rhythm. I think in that rural sense of rhythm there is definitely something that is common to many Finnish and Japanese people who grew up like myself, probably it can be universal for certain generations, something that I think is definitely belonging to the world long gone though. And I think, in some strange way, that kind of seemingly minute thing might have also been what has made my sound fitting for butoh also. I think life is an accumulation of mistakes, coincidences and strange circumstances. Somehow I have found my home in the world of butoh, working in between the narrow marginals of the subgenres of underground culture, and it has brought me many amazing friendships, collaborations and interesting ideas and filled me with gratitude and love for what I do, to this path that I have dedicated my life to and intend to keep on doing so in the future also. I made this album to go along with the text. https://junkyardshaman.bandcamp.com/album/the-poetry-of-flesh-and-rust

 

Mokurai, photo by Sakaki Asano